2022年6〜7月のふりかえり|政治が政治の話になっていない
前回「役目を終えた気がする」と書いたものの、ひと月を振り返る時間は精神衛生的にもいいな、と思い直し、内容を絞ってつづけることにした。
今回は6月中下旬から7月末のふりかえり。政治と、インタビューと、「親戚のおじさん」の一ヶ月半だったかな。
6月◯日
東京に戻ると、杉並区はちょうど区長選のタイミングだった。岸本さとこさんという女性が立候補すると知り、近くの駅前へ街宣を聞きに行くと、いるはずのない淡路島の友人がつっ立っていて驚く。青木将幸さん。岸本さんとは学生時代からの盟友で、出張帰りにのぞきに来たのだそう。
彼はその場でマイクを握り、即興の応援演説を一発ぶち、次の場所へ向かう彼女を見送ってからみんなで中華料理を食べた。選挙は初日で、まだのんびりしていたな。(岸本さんはその後当選。現区長に)
今回は出来るだけナマで選挙を体験しようと思い(畠山理仁さんの影響)、2日後、現職区長の演説会にも行ってみた。場所は某神社の披露宴会場。お話は上手で、そこそこ説得力もあり、かわいらしく感じる部分もあったが、式の進め方、応援で壇上に立つ方々の言葉、会場に集まっている人々のノリは肌に合わなかった。
票を入れるつもりがあろうとなかろうと、実際に足を運んでみると、写真や動画のフレームの外で起きているいろんなことがわかる。いい勉強になった。
つづけて参院選があり。奈良の事件が起き。宗教と政治の関係にスポットライトがあたりつづけて、先日は(7月下旬)つい伊丹十三監督の「マルサの女2」を見直してしまった。
政治にあまり関心がないとか、わからないとか言っていられない時代になって久しい。でも、そもそも政治が政治の話になっていない。たとえば「嘘が多い」「予算の使途が不明」など、政治以前のしょうもないあれこれがヤブのように茂って、政治の話に辿り着けない状況がつづいていると思う。
20年前、最初の本の前書きで「なぜ自分の仕事が、他人事の仕事のようになってしまうんだろう?」と書いたが、そこには構造的な問題がある。その構造には、日米安保条約や、さらには明治維新に遡る部分も大きくて、解きにくい。一つにはなんといっても「昔話」だから。
「保守/リベラル」の二極は、「全体主義/民主主義」「教育/学び」、あるいは「先回り/待つ」といった関与姿勢の違いにも重なるが、かわりに「昔/いま」という言葉を置くことも出来る。昔を生きつづけている人々と、いまを生きようとしている人々の相克。
社会は結果として変わるもので、変革自体を目的化すると、ビジョンや言葉が実態を追い越して空回りしやすくなる。健やかに進むには具体的な「いま」を積み重ねてゆくしかないと思うが、選挙の最終日、マイクを渡して路上に腰を下ろし住民のスピーチを聞いていたという岸本さんのあり方は素敵だ。そこから始めるんだな。
新しい選挙のカタチ?『住民の演説を候補者が聞く』
https://www.joqr.co.jp/qr/article/56514/
6月◯日
今年も東京美術館×東京藝術大学「とびらプロジェクト」の基礎講座を担当。「きく」ことや「働き方研究」の具体的な社会実装として10年以上重ねてきて、なんだか一つの文化圏になりつつある。
もし「きく」ことについて本を書く機会があったら、あらためてこの場をフィールドワークすると良さそう。年齢や性別、職歴やコミュニケーション習慣の異なる人々が美術館でくり広げる活動群の中で、「きく」ことと「はなす」ことの見直しはなにを生み出しているか。ちゃんと確認するといいと思う。
企画・構想段階から「とびらプロジェクト」に一緒にかかわってきた日比野克彦さんは、4月から藝大の学長に就任。学内誌『藝える』を編集する藤崎圭一郎さんからインタビューを頼まれた。
自分はなぜインタビューの仕事が好きなんだろう。「興味・関心のある人に会える」「その人の視点で世界が見える」ことに加えて、「一所懸命生きていることがわかる」のも大きい。
〝インタビューするとその人を好きになってしまう問題〟というのが私にはあって、今回もいまさらながら日比野さんを好きになったけど、そうなってしまうのは、本人が一所懸命に生きている姿や事実を端々に感じるからだ。日比野さんに限らず、ほぼすべての人が精一杯生きていると思う。そして原稿にまとめながら「何度も味わい直す」時間を過ごす。
インタビューイの言葉を辿り直してゆく作業は本当に面白い。わかりやすく言えば、たとえば「したいと思う」と「したいとは思う」では身構えが違うわけで、音源を丁寧にきき直すと、話の内容以上のものがたっぷり表現されていることがわかる。
日比野さんの素直さがストーンとあらわれた、いいインタビュー記事になった。秋口の第11号に掲載予定。
藝大サイト/ 広報誌「藝える」
https://www.geidai.ac.jp/information/publication/pr_magazine
7月◯日
秋まではひと休み期間のつもりで、お断りしている仕事もある。そんな中で断らずにポツポツ増えているのは、自分より若い連中の会社の相談事だ。以前書いた「親戚のおじさん」のような立ち位置の働きが2〜3社で起こる先月になった。
その多くはまだ小さな会社だけど、何十万人が働く大企業の「働き方」の相談も来て、その仕事にどうかかわるか考えていた。いまも考えている。
会社には「社会内小社会」のようなところがあって、社員の数が多い会社ほど、一つの重力場として閉じやすい。中でも日本の会社には、旧来の「終身雇用制」の名残や「税金の給与天引き」など、社会を直接感じにくいというか、個人として感じずに済ませやすい環境特性がある。社会活動のど真ん中にいるようで、社会とつながっていないところがある。
働き方を構成する要素は、大きく〈制度・空間・道具〉の三つに分類出来る。〈制度〉には、等級や報酬を軸とする評価制度から、複業規定、法定外休暇の設定、あるいは「トイレの掃除を業者さんに任せるか自分たちでやるか」といった運用ルールのようなものまで含まれる。
〈空間〉には、物理的なオフィススペースと同時に、グループウェアなどIT環境も含まれる。〈道具〉は空間と重なる部分も大きいが、ファイリングシステムや文房具、あるいは車とか。
でもこれらの単なる見直しは「より快適に働く」改善活動に終始しやすく、結果としてリクルーティングのアピール材料や、離職率の抑制程度の話にとどまることが多い。
その前に、あるいは同時に必要なのが「これからどんな仕事をしてゆくか」という新鮮な意味の共有と、「自分の頭や心で動く個人」という主体の育成だと思う。でも、戦後の経済成長期に大きくなった大企業は多くの場合「これからの仕事」の再設定が難しいだろうし、そもそも大会社に就職して働いてきた人たちは空気を読む力のトレーニングを重ねているはずだから、いい・わるいでなく、本人の力の扱い方に抑制傾向があると思う。求められる範囲での自由や主体性、というか。
「仕事の意味」「主体的な個人」そして「働き方」の見直しの三つを同時に扱えるかな? というのが、その会社の相談に際して考えることなのだけど、そうだな…こうして言葉にすると、あの人たちは扱えるかもという気がしてきた。書くことや話すことで頭や心の外へ出てみるのは大事ですね。3週間後のキックオフミーティングをいい時間にしよう。
8月は「インタビューのワークショップ」オンライン版の月。5名の参加メンバーと4週間をすごす。頭の中の大半を「きく」と「はなす」ことで占めたい。読みたい本もたくさんあるんだ。机のまわりを片付けよう。昨晩はCorneliusのライブ中継(フジロック)を楽しんだ。