11月のふりかえり|見えているのに、見ていなかったものが
今月はコンパクトに書きたい。
11月◯日
生活工房へ「子ども・おや・じぶん 親子関係を生きる君へ」を聞きに。鳥羽和久さんと直にお会いするのは初めて。
彼は現実的。現実の捉え方の解像度が高くて、あとここが大事なところだと思うけど理想がある。それをベラベラ喋りはしないけど。
宮崎駿さんの「理想を失わない現実主義者にならんといけないんです。理想のない現実主義者ならいくらでもいるんですよ」という言葉を思い出す。別の言い方をすると、現実的だが現状を容認していない。
参加者同士で語り合うくだりで、二人のお母さんとご一緒した。彼女たちの話をききながら「大人も誰かの子どもで、何歳になっても子どもなんだな」と思う。その人たちが子どもじみていたわけではなくて、子どもの頃の親との関係にまだ未消化な部分があり、でも親は年をとって、あらためて向き合いたくても以前とは変わってしまっていて…という悩ましさを垣間見た気がした。
その帳尻合わせが、捻れたかたちで子どもに向かわないといいな。
別の登壇者が口にした「受験には自傷のようなところがある」という言葉に驚く。文科省が進めてきた「キャリアパスポート」の存在を知り唖然とした。子どもたちに「何歳で結婚」とか「将来の子の数」を書かせるってなに? ただ唖然としてしまうけど、冗談でなく本気なんだろう。
11月◯日
「町の工務店ネットワーク」の小池さんたちと、静岡県袋井で進んでいる住宅開発の予定地を訪ねる。田瀬理夫さんがマスタープランを描いていて、完成すると彼の最新作になる。
敷地を歩きながら、知らぬ間にたくさん虫に刺されていて、このあと2ヶ月ほど痒みで苦しんだ。草地がこわい。
11月◯日
新宿高島屋のレストラン階にあるとんかつ屋「かつくら」のフロアマネジャーが、非常に心強い。順番待ちの列には最近海外のお客さんが多いが、その捌き具合もいい。「かつくら」は他の店のマネジャーもなんか人格があるというか、面白い感じ。会社として興味がある。
11月◯日
2ヶ月前から準備してきた「模写美術館」が初日をむかえた。これから月末まで10名で、めいめいが選んだ絵の模写をする。1996年の別冊太陽で、赤瀬川源平さんがやっていた誌上企画の追体験。
ずっとやりたかったのだが、9月頃ふと「とびらプロジェクト」の小牟田悠介さんに相談したところ、彼の手元に油絵の道具が10セットほどあることがわかり急遽実現した。
私は美大出身なのでデッサンには多少おぼえがあるけど、油絵は初めて。まずは道具の使い方から。
恐る恐るキャンバスに絵の具を置き始める。
「もうこの辺でやめといた方がいいんじゃないか」「いまがいちばんいいんじゃないか」という気持ち。
他のみんな(希望者を募りサイコロ抽選で選ばれた方々)も大半は「油絵は初めて!」。部屋の中で全員静かに汗をかいている雰囲気。初日が終わる。
11月◯日
2日目。同じ部屋に集まり、また黙々と模写をつづける。
赤瀬川さんは「うまく描こうとする必要はない。絵はもう完成している」と書いている。たしかに。
都美で描くのは今日まで。明日からはそれぞれ自宅で描き、描き上げた絵を月末に持ち寄って体験を語り合う予定。家で描けるかな。
11月◯日
描くのは一度お休みにしてアーティゾン美術館へ。セザンヌや黒田一輝の絵が、絵というより「油絵の具」のかたまりに見えて驚く。こんなに絵の具だったのかー(油絵は)。
山口晃さんの展示の、セザンヌのくだりがタイムリーだった。私は運命を生きているんだな。
そうか。山や静物を描いているわけじゃないんだ。描かれているもの(内容)はぼやっとしていて、けど存在感は強い。細部に目を至らせない工夫。結果的に「見える」という経験に永続性が生まれる。セザンヌってそういうことだったのかー。
山口さんは「積層したモネ」とも書いていた。今日はもうお腹がいっぱいです。
11月◯日
私が描いている「睡蓮」のオリジナルは、1月下旬に東京に来る。拡大したカラーコピーを描き写しているけど筆づかいがよくわからないな…と思い、描くのはお休みにして上野の森美術館へ「モネ/連作の情景」展を見にいく。
印象派が「まだ描きかけじゃん」と怒られたのはわかるな。筆致のことは結局よくわからなかったけど、急いで描いていたのはわかる。
川の氾濫を描くんだ。「なにこれ、きれい!」と思ったんだなー(たぶん)。ひとはなぜ絵を描くんだろう。しかもこんなに沢山…。
モネに世界はどう見えていたのか? ということを、非言語的に体験したい。模写でも描く前にもっと見た方がいいんだろうな。
11月◯日
Co-Lab・渋谷キャストへ田中陽明さんを訪ねる。森ビルの空き階でスクワット感をもって始まった制作の場が、コワーキングやシェアオフィスの戦国期を越えて事業として育っていて、見上げる気持ち。
11月◯日
持ち帰ってからまだ一筆も描いていないけど、この日は葉山へ合宿に。「絵の具とか広げたままに出来ない」とかそういう理由で「描き始めにくい…」とか思っちゃだめだな。印象派の方々は外で描き始めたんやで。
一軒家を借りて団さんたちと統合報告書の勉強会。「会社」について考えている。
自分の中に「こんなにみんな働いているのに、働いたその先で社会が空虚なものになってしまうのはどういうこと?」という問いがずっとある。「会社」がその虚しさの発生源になっているとしたら、とても勿体ない。
この勉強会の展開は来年前半に姿をあらわすと思う。
散歩していたら、ある家の前の地べたに無人店舗が広がっていて素敵だった。
11月◯日
明大前駅へ歩きながら、夕暮れにむかう雲をみて「これ描けるかな」と思う。片手に絵筆を持つ感覚で世界を眺めている自分は初体験で、びっくりした。風景画を描いている人はみんなこんな状態なのか。
赤瀬川さんの文章を読み返す。
11月◯日
来月の「どう?就活 3」のゲストと事前打ち合わせを重ねている。この日は中村さんと、暮しの手帖社の北川史織さんを訪ねた。
彼女が編集長に就いたのは約4年前。前任の松浦さんや澤田さんは編集部の外から来た人で、彼女は中にいた人。副編集長からの就任後、最初の号の表紙に載せた言葉〝丁寧な暮らしではなくても〟の印象は鮮烈で、私のまわりでも『暮しの手帖』にバッと目を向け直した人が多かった。
「どう?就活」の二日目に「会社ってなに?」というテーマを置いたのは、それを考えて働く方が面白いと思うのと(「忖度しよう」という話ではない)、自分のことや、半径数メートルのやり甲斐・意味・人間関係で悩んでしまっている人が多そうで、かみ合っていないなーと感じることがあるから。
「会社」のことって経営側にまわらない限り、考えない人が大半じゃないかな。で、両者に見えている景色はけっこう違う。
今年の夏から『暮しの手帖』の定期購読を始めた。〝Waht's next?〟の多い雑誌業界で、〝いま〟をわかち合える紙面を、本当に一所懸命つくっているんだなと思う。北川さんはそんな人でした。会えてよかった。
11月◯日
横浜で「町の工務店ネットワーク」の「秋の設計セミナー」。鹿児島の工務店「シンケンスタイル」の代表・迫英德さんの報告が面白かった。
彼らが建てる家は道路に合わせていない。〝太陽の動き〟に角度を合わせるのでこうなる。
私は武蔵美でインテリアデザインを学んだけど、結局のところ設計者にはならなかった。30才で建設会社を離れてからは、メディアアートや、教育、いろいろなデザイン・プランニング、本の執筆、ワークショップの仕事を日替わりのようにして、50才になってから「大埜地の集合住宅」で再び建築に接近したが、設計与件をまとめて設計チームをつくるところまでで、設計そのものには到底手が出ないしこれからも出来ないと思う。
でも、住宅や建築のことはどうでもいいかというとそんなことはなくて、あきらかに情熱がある。でもその発揮の仕方がわからない。
建築家の泉幸甫さん(左)、ベルリンの服部圭郎さん、ランドスケープデザイナーの竹林知樹さん(右)の三人と、「住宅地と車道」「家と地形」の話の進行役をつとめた。
竹林さんは近年、田瀬さんと一緒に「アクロス福岡」の植栽管理や、先述の袋井の仕事を手がけている若手。彼のような人がいてよかった。
11月◯日
週末を含み月末にむけてカウントダウンに入り、ようやく模写を再開するも、油絵の具はなかなか乾かないので一日に描ける量が限られる。
うっかり鮮やかな色を置いて、台無しにした気持ちに。
11月◯日
さらに鮮やかな色を置いてしまう。
私はなまじ美大を卒業したものだから、「絵ね。まあ描けるよね」という錯誤を抱いて40年近くすごしてきた。
11月◯日
やぶれかぶれになっていいことないなー(油彩において)。
すこし落ち着きを取り戻した。水面に睡蓮が浮かび始める。でも油断するとつい手癖で「絵」を描いてしまう。創作してしまうというか。
11月◯日
あと二日。この絵でモネは、水面に映る空の明るさを描いていたんだなということはわかってきた。見えない水底を描くのが難しい。
トリフォーの言葉、「映画製作は駅馬車の旅に似ている。最初は期待で胸がいっぱいだが、すぐに目的地に着くことだけを考えるようになる」(「アメリカの夜」)を思い出す。
別冊太陽の別ページに鹿島茂さんが寄稿している「彼らがビンボーだったわけ」が面白い。午後は合羽坂テラスで宮田生美さんのインタビュー。来年2月のワークショップの準備を始めている。
11月◯日
模写、最終日。睡蓮の葉や花の色を置く。まだ乾いていない絵を抱えて、東京都美術館へ。
約30年前に赤瀬川さんの別冊太陽を読んで、ずっと「済んでいない」と思っていたことができた。体験したかったのは「モネになにが見えていたか」。物事を違う目で見て違う言葉を語りたい、という気持ちが根底にあった。
油彩が初めてだったので「なにが見えていたか」の前に「どう描いているか」という岩場がつづいたが、3週間の模写を経て、ほかのみんなも口々に「絵や風景の見え方が変わった」と語っていた。「街路樹の枝が黒い!」とか「夜空は明るい(山影の方が暗い)」とか。
「世界に輪郭線がない」のは予備校時代の静物デッサンで重々わかっていたけど、今回絵筆を持って「世界は色彩なんだなー!」という感動があった。隅々まですごい。なんてすごい、なんてすごい季節でしょう。(©大島弓子)
きこえているのにきいていないこと。見えているのに見ていなかったものが、きこえたり、見えてくる瞬間の面白さにずっと関心がある。