発達障害26歳早稲田政経卒男性の記事を読んで
こんばんは。今日は先日ツイッターで読んだある記事について思ったことをつらつらと書き綴ってみたいと思います。
その記事はこちら。
なんとまあ目の引くタイトルだなあ、と改めて思いますね。自分も早稲田卒で同世代ということもあるのかもしれないけど。
この記事で取材を受けている方は、早稲田政経卒業後、念願だった出版社に就職したが、仕事上でのミスの多さや上司からの叱責等により1年も持たずに退職。その後、警備員のアルバイトを始め貯めたお金で予備校に通い、公務員試験に合格後就職。しかし公務員の仕事でもミスが続き、ストレスにより2ヶ月余りで退職。抑うつや睡眠障害などに悩まされ、病院で検査の結果、発達障害(ADD、ASD)と診断された。公務員を退職後は引きこもりがちになりながらも清掃会社でのアルバイトを行い、現在は障害者雇用枠によって正社員として清掃会社に就職予定とのこと。
彼が訴えたいことは、発達障害の早期発見の大切さ、そして発達障害が福祉の狭間に陥りがちの現状だという。
うーん。この1本の記事の中に、考えさせられることがたくさん詰まっているなあと。
まず、彼はウェクスラー検査を義務化するべきだと言っている。私も義務化までとはいかないけれど、この意見にはちょっと賛成だ。
ウェクスラー検査とは、子供から成人までを対象にした知能検査のこと。
どれくらい言語能力があるか、抽象的な思考ができるか、目で見た情報を統合的に認識できるか...などなど細かくジャンル分けされたテストを受けることで、詳細な知的能力を測ることができる。
(私はまだ心理学部の学生なのであくまで知識ベースの意見だけども)このウェクスラー検査を行う上で大事なのは、この検査は単に発達障害の診断のためのものではないということ、なんじゃないかと思う。
たしかに検査結果によって、その人の一般的な人たちの中での発達レベルがわかるだろう。結果によっては、特定の能力の極端な低さ(平均以下)がわかるし、それは発達障害の診断基準になる。
けどもっと大事なのは、ウェクスラー検査によって、その人は何が得意で、何が苦手か、というのが数値に基づいてわかり、それが自己理解に通じることだ。だって程度の差こそあれど、誰にでも得意/不得意ってあるじゃない、と思う。
周りと比べて自分はできない人間なんだ、健常者じゃなくて障害者だったんだ。検査結果によってはこんな風に感じてしまう人もいるだろう。この記事の方も、25年間ずっと自分は健常者だと思っていたのに、障害者だと診断されてショックだったと言っている。
彼が、検査後に医者あるいは心理士からどのようなフィードバックをされたのかはわからないけれど、そういう部分がしっかり伝わっていて、その後の心理的なフォローがちゃんとされていることを願う。診断後、カウンセリングとかは受けていたのかな。
彼は早稲田の政経に合格して、出版社に就職して、公務員試験にも受かっているくらいだから、言語知能が高いだけでなく、きっとかなりの努力家なのだろう。
ていうか、自分でアルバイトして貯めたお金で予備校通って、見事公務員試験合格って...普通にすごくないか。
でもそんな人が、今後は清掃会社の障害者雇用枠で、手取り12,13万で働くのだという。障害者手当ももらえずに。
これを彼は福祉の狭間と言っている。本当にそうだと思う。
おそらく、障害者手当はもう少し重度の障害じゃないともらえないのだろう。彼の雇用は障害者枠なのにね。
なんだかなあ。上手く言葉にできないけれど、もっと何か他に道があるんじゃないか、と思う。
もちろん彼が納得しているのなら何も言うことはないけど、彼は納得していない。
もっと得意なことを活かして、不得意なことを周りでカバーできるような会社なり環境なり、あったらいいのに。もちろんあるのかもしれないけど。まあでもあったら、障害者相談センターでちゃんと紹介してくれてるのかな。
こんなに絶望の底に陥っても、しっかり自分の足で這い上がって、何度もモチベーションを持ち直してやっている彼は、かなりレジリエンスの高い人なんじゃないかと勝手に思っている。
でも世の中には、彼のような社会復帰ができない人がいくらでもいるのだろう。
この間『分裂病と人類』を読んだ時にも思ったけど、「普通じゃない、異質な人は排除する」という考え方から、共存に移行しなければいけないと思う。優しくて寛容な社会であってほしい。
この記事を読むと、発達障害の問題は、医師や心理士だけではなく社会、行政の占める部分がとても大きいなあと。制度で救えないならどうすればいいのかね。
まだまだ、考え続けなければいけないことが山程ある。
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