ギリガン「ケアの倫理」の補助線としてのフセイン『「女の痛み」はなぜ無視されるのか?』
今年になってから3人でグループDMをしていた。コールバーグの「正義の倫理」とギリガンの「ケアの倫理」について語るつもりで、コールバーグを理解してもらうために私がカントから始めてしまったものだから、カントのア・プリオリの用語の説明あたりで有耶無耶になってしまった。
メンバーの1人がよんどころのない理由で立ち去らざるをえなくなり、そのままになってしまったことが残念な、穏やかで知的な場所であった。
残された二人でどのように論を勧めていくか、それともメンバーを増やす方がいいのだろうか。一対一は上下ができやすいので、3人ぐらいがよいのだが、適切なメンバーがピンとこない。
そんな日々を過ごしてきた。
社会正義を考える時に、なぜ、ケアの倫理を忘れてはいけないのか。
私がギリガンやコールバーグを学んだ90年代と、現在では、世界の状況は大きく違う。
フェミニズムにはバックラッシュが起き、少子化と高齢化は加速し、経済的にも衰退し、日本は立派な衰退途上国だ。
世界はとても不穏になった。温暖化と災害の連続、大規模な侵略戦争、各地域の闘争など、気楽に旅行に行ける対象国は減っているのではないかと思う。
その中で、ネオリベラリズムという成功も失敗も自己責任という論調が世間に蔓延している。この自己責任論は、成功した人間にとっては都合がよいが、陥落して当たり前の日常を送ることすら難しくなった者にとっては非常に厳しい。
そこで、再び脚光をあびるようになったのが、ケアの倫理ではないかと考えている。
このことをツイートで書こうとすると、文字数の少なさから、違う立場からの意見をいただいたが、時代順に並べておきたい。コールバーグが正義の倫理を提唱したのは、主として70年代から80年代。コールバーグは、ジャン・ピアジェの影響を大きく受けている。その正義の概念を理解するためには、1971年に発表されたロールズ「正義論」を援用するとよいとも言われる。
私自身はロールズをきちんと読まなかったので、そこには触れることはしないが、コールバーグの提唱するEthics of Justiceを訳す時に、Justiceを正義とすることにしばしば抵抗を感じた。
日本で用いる正義には、たとえば「正義の味方」のような絶対的な正義、それが正しくて良きものであって反論を許さない、ア・プリオリな正義である。だからこそ、時に、正義を振りかざす人は暴力的になる。
しかし、コールバーグの描くJusticeは、公明正大さの方が近いのではないか。平等で、対等で、正々堂々としているような、そういうニュアンスだからこそ、最もEthics of Justiceの発達段階の頂点に立つ人の例としてイエス・キリストや釈迦が挙げられる。
そこに反論を呈した1人が、キャロル・ギリガンである。エリク・エリクソンに指示し、Ethics of Careに基づく道徳性の発達段階を提唱した。
配慮の倫理と訳すが、思いやりや気配りの倫理と訳されることもあるだろう。
このギリガンの記した『もう一つの声』は私にとって、とても印象深く、影響を与えた本の1冊であるが、この本だけを読んでも分かりづらいとの声をもらった。
当初、それはEthics of Justiceのカウンターとして書かれたことを踏まえて読まないと分かりづらいのではないかと考えいた。
そんな時に、アヌシェイ・フセイン『「女の痛み」はなぜ無視されるのか?』のなかで、次のような一文に出会った。
これは、コロナのパンデミックがケアワークを急増させた文脈で紹介されているインタビューだ。
この20世紀にも根強くあった状況を理解しなければ、ギリガンのEthics of Careも、アサーション・トレーニングが人権教育から始まる意味も、ぴんと来ないのではないか。
この女性が社会のセーフティネットとして働くイメージは、19世紀のオールコットの『若草物語』やアメリカではないが北米大陸を舞台にしている『赤毛のアン』の養父母やコミュニティの様子に見て取れるだろう。極めて、ピューリタンなコミュニティ。続いて、20世紀になってからは、『大草原の小さな家』のドラマなどで、家庭で何度も何度も染み込むまで教育されてきた。
この社会的背景を理解すると、ギリガンの提唱する発達段階はこれをそのまま整理したことがわかるのではないだろうか。
と同時に、ケアというものの価値をこれ以上無視してはいけない局面にあることを、フセインは教えてくれる。
実際に、私の周囲で起きたことである。そして、働く女性たちは消耗し、DVや虐待は増えた。仕事を辞めざるを得なった女性たちも少なくなかった。この本が描き出すのはアメリカの女性たちの状況であるが、本邦の女性たちの状況とそのまま重なるように思う。
経済的に意味のある活動を、家族の誰かが背負わなければ、その家庭の生活が困窮し、成り立たなくなる。しかし、その活動を支えるために、世話をする役割が母親に一極集中することが、アメリカなら1950年代、日本なら1970年代まで遡りすることになった。
このように、今なお「アメリカでは、依然として母親はいざというときの切り札」であることが、アメリカでも明確になったのだ。
また、子育てと家事ですでにいっぱいいっぱいのうえに、高齢の両親の介護を背負わされることが圧倒的に多いという一文にも出会って驚いた。
そして、フセインは、過大な期待と労働と変化が、女性のうつ病を増やし、出生率の低下を引き起こしていることに触れていくのであるが、本論ではそこまでには広げず、ケアの価値についてのところに戻りたい。
社会正義や人権について考える時、人の思考は公正や公明正大さに注目しがちではないかと思う。
その時に、その偉大なる公明正大さを支えるために、背後で支える広大で膨大なケアがあることを忘れずにいてほしいと思うのだ。
私はこの2つの方向性の倫理は、どちらかがどちらかに対して優位であるとか、二者択一なものではなく、相補的なものであると捉えている。
元はと言えば、17世紀、様々な出自を持つ人たちが集まったアメリカで、信仰上の大同小異はあれ「汝、よきことをなせ」という宗教的な制約は背負っていることを担保にして社会を作ってきたことから、派生したことのようにも考える。
面白いことに、フセインの本は次のような言葉で締めくくられていた。
これもまた、もう一つの声である。
どうか、この声が、立ち上がるための勉強をしている友人たちに届きますように。
年下の友人のなにかしらのヒントになりますように。
連絡が取れなくなった闘病仲間を思いながら書き上げました。
あなたがいなくて寂しく思うし、いつも名前のない神に祈っています。