
書籍『JR上野駅公園口』
柳 美里 2017 河出文庫
景色が見えてこない。
上野駅は何度か行ったことがある。
いくつかの景色は今も覚えているのに、この小説を読んでも景色がうっすらとしか見えてこない。
その代わり、音や声に耳を澄ませているような気がした。
目で文字を読んでいるのに、ざわめきを聞いているような心地がした。
目を閉じて、そこに立っているかのような。
うつむいて、とぼとぼと歩いているような。
通りすがりの人の断片的な会話が聞こえてくるが、その会話は主人公である語り手の心にとどまることなく、主人公の心は過去にいざなわれる。
主人公の過去も二つに分断されていて、ホームレスの人たちと過ごした時間があり、その背後には生まれ育ち働いてきた日々の時間がある。
うろうろと歩き回りながら、心はあちらこちらの時間と場所にさまよう。
さまよいながら、ある一つの時間へと様々な断片が集められて凝縮していく。
この見事な仕掛けの小説のあちこちに付置された地名が、私をひどく落ち着かない気分にした。
浜通り、小名浜、相馬、浪江、双葉…。
東日本大震災のときに、地震があるたびに震度はいくつと読み上げられた地名だった。
津波や死者の数を報じるたびに、耳が慣れておぼえた地名である。
福島には行ったことがなく、縁遠い土地に住む私であっても、忘れられないものとして刻まれた地名の数々。
それらの地名が、小説のなかの時間が進めば、どういう災害に出会うかを知っているから、この小説がどちらに向かうのかを予感して、不穏な気持ちになった。
主人公は1933年に福島で生まれた。平成の天皇と同い年。
8人兄弟の長男で、12歳の時に終戦を迎える。戦争中も、戦争後も、食べていくのが大変で、弟妹を育てるためにも早くから出稼ぎに出た。
大型漁船に住み込んだり、ホッキ貝や昆布といった漁業を手伝ったり。
結婚してからも、妻子のほかに弟妹の進学を支えねばならず、東京へ、オリンピックのための土木工事をするために出稼ぎに行った。
主人公の長男は、くしくも皇太子の誕生と前後しての出生だった。
そのように、いつも天皇家と並走するように、主人公の人生は進んでいく。
それでいて、両者の人生は、生活は、まったく違ったものなのだ。
読めば読むほど、この国は法のもとの平等を保障した民主主義の国ではなかったのだろうかと苦しくなる。
運がない。
親にそう言われるほどに、主人公の人生は苦労や別離の連続だ。
主人公自身も、生きることに慣れられなかっただけだというが、この人生に慣れることなどできるのだろうか。
今の便利な世の中は、日本の国力や文化がいささか衰退の兆しを示しているとはいえ、東京オリンピックが象徴する戦後の復興期から高度成長期を支えた人々が築いたものである。
その便利で居心地のよい、こぎれいな生活を享受しているならば、どうしてこの世界を作るために身を粉にした人たちを感謝と敬意をもって大事にしないのだろう。
路上で生活せざるをえなくなった人たちが、鳥や猫をかわいがる。それこそが人らしい心持ちではないのだろうか。
人の尊厳とはなんだ。人が人らしく生きることが当たり前にできないとは、どういうことなのか。人であるとはなんなんだ。
憤りにも似て、胸をかきむしりたくなるような、激しく嘆きたいような気持ちが込み上げてくる。
家族を養うために故郷を離れ、家族のために家族と生きることができない生き方は、梁鴻『中国はここにある:疲弊し衰退する農村社会の記録』と二重写しになる。
そうやって、いつの間にか、居場所を失っていった人たちがどうなるか。
何度も繰り返す別離、生そのものが断片化されていく様は、リービ英雄『千々にくだけて』を想起した。
死別のたびに砕かれていく心を、どうにか寄せ集めて生きているうちに、体だけは生きているのに、心はもう過去にしか向くことができなくなるのだ。
死者が生前を夢見る亡霊の物語として、映画『ボヘミアンラプソディー』を思い出した。死者は、その一瞬につなぎ留められるだけで、その先の未来も救済もない。
虎猫のエミール。『エミール』を書いたのは、ジャン=ジャック・ルソーだ。ルソーの代表作の一つは『人間不平等起源論』ではないか。
人々が目を留めようとしない景色のように、彼らはいる。
人々と目を合わさぬようにうつむきながら歩く彼らは、その分、耳を澄ませているのかもしれない。
そして、160ページを過ぎたあたりから、俄然、視覚に訴えてくる。
それまでは色のない素描にすぎなかった景色が、色鮮やかな最新技術を駆使した映像のように、鮮烈に目の前に襲うように立ち上がってくる。
私はその頃には油断していたのだと思う。
主人公は、息子を早くに失い、家族を失い、故郷を再び離れ、もう何も失いようがないほど失ってきたのであるから、あの人は無縁であると。
いや、無縁ではなかった。
遠くに在りて思っていた、確かに在ったものが無くなる。根こそぎに。
人が生きている限り、その人だけは自分がなにものかを知っている。
にもかかわらず、その人が死んでしまった後、それがどこのだれかがわからなくなることがある。
その人が死んでしまったときに、その人の心に抱えていた秘密も思い出もすべて消えて行く。
亡霊は、文脈から切り離されたバラの絵のように、その場に縫い留められている。
いつか自分もそうなるのかもしれない。
*****
この本は内容をまったく知らずに手に取った。
このタイミングで手に取ったのは、波多野七月さんがレビューを書いていたからだ。この人が絶賛するからには読み甲斐がある話題の本だろうと思って、意識に残った。レビューそのものは、本書を読んでから見せていただこうと思っていたので、やっと読むことができる。
そのまま、しばらく部屋に積んでいたのであるが、垣谷美雨さん『女たちの避難所』を読んだ後に、次に読むのは『JR上野駅公園口』であると、本からひそかな呼び声が聞こえた気がしたのだ。
10年目の3月に、この2冊の本を読めてよかった。
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