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死者の民主主義

畑中章宏 2019 死者の民主主義 トランスビュー

四方八方に論が展開していき、刺激的な読書となる。そんな本だ。
あとがきを読むと、どうやら、あちこちで書かれたものを集めたもののようである。
#NetGalley で拝読したゲラは、第一章「死者の民主主義」と第二章「人はなぜ『怪』を見るのか」だけであるから、余計にこの論がどこに流れゆくのか、見えなかったというのもある。

登場する素材はさまざまで、ハロウィンもあれば、『この世界の片隅で』も出てくる。
『レディプライヤー1』もあれば『遠野物語』もある。
「現生に怨恨をのこす迷える怨霊」が集合性を帯び、個人から離れて公共化され、抽象化されたのが日本の妖怪であると、筆者は定義する。(p.40)

妖怪が存立する理由のなかには、腑に落ちない感情や、割り切れない想いを合理化する機能があった。(p.69)

SNSにおける炎上という現象が、新しい時代の民俗現象として位置付けらるところが、とても興味深かった。
筆者はAIが「やがて人間生活を脅かす妖怪になっていくかもしれない」(p.69)と指摘する。筆者はその兆候はまだ捉えられていないというが、SFのような創作の世界では、常にAIは妖怪になりうるものだった。たとえば、映画『ターミネーター』が教えてくれることである。『ブレードランナー』が教えてくれることである。当時はAIという呼び方ではなかったけれども。

著者は怪を映し鏡にして、微妙で絶妙な角度から現代を映し出そうとしているように見える。
それはSNSが発達して、新たな妖怪が発見されてにくくなった社会である。
それでいて、「東日本大震災以降の、気持ちの落ち着かなさやおさまりの悪さ、もやもやした感情」(p.103)が今も続いており、震災は終息も収束していないことを映していく。
もやもやを処理する機構としてかつて妖怪は優秀だった。妖怪がいなくなったら、そのもやもやはどうしたらよいのだろうか。

前後して読んだ本が、瀬川貴次『ばけもの好む中将8:恋する舞台』であったり、阿部智里『弥栄の烏』だったりして、私の中では死した者とのおつきあいが続いている感じだ。
おりしも8月であり、さまざまな残酷な事件が続いている年であるからなおさら、私自身も、このもやもやを感じている。

全編を読んでおきたいなぁ。

幸福なときも不幸なときも、「夢かもしれない」「悪夢のようだ」とつぶやきながら、日本人はずっと残酷な現実を生きてきたのだ。(p.118)

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