#26 現在進行形という価値
■写真日記の整理をしながら
年末になると、今年を振り返る的なことを
毎年やりたくなるのは何でだろう。
写真日記の整理をしつつ、見返すと、
すんごい量の「過去」が積み重なってると気付く。
ほぼ毎日、頑張って書き続けてきたんだなぁ。
でも、この「過去」たちも、
これを書いていた時は「今日」だったんだよな。
とか思う。
文字があり、高性能なカメラがあり、
ほとんどそのままを残せる時代だといっても、
「今」が「今じゃなくなる」と思うと 切ない。
「今」が「今じゃなくなる」瞬間って、
なんでこんなに寂しいかな。
もう二度と、「今」にはならないからかな?
日記も、写真も、noteの投稿だって、
「今、この瞬間」を切り取ったもの。その記録。
まだ思い出せるものはあるし、
もう忘れてしまったものも含めて、
「あ、今のこれ、とっておこう!」と思った
理由(思い)が何かあったんだろう。
たとえ憶えてなくても、
切り取ろうとしたから、切り取ったから、
振り返ることができる「過去」として
今に残ってる。
そこは、僕、グッジョブ!
ただ、過去が過去であることに変わりなく、
その寂しさを、完全に埋めてはくれない。
■学校という不思議な時間にあったもの
年末にかけて、
同級生と会う機会がいくつかあった。
会うにあたって、連絡のやり取りもして、
それが久しぶりの会話だった人もいたりして。
学校って不思議な場所だよね ってよく聞くけど、
僕も確かにそうだなと思ってる。
学校に通ってたときって、
何があんなに楽しかったんだっけ?
それが終わったとき、
何であんなに寂しかったんだっけ?
今、同じ場所に行ってみたとしても、
全然違う場所のようにしか感じられない。
今、同じメンバーで集まってみたとしても、
懐かしさはあれど、あの時とは全然違う。
「場所」でもなくて、「人」でもない。
答えは「時間」?
年齢や価値観の変化も大きいけれど、
きっと 一番変わったのは、
あの時間が、あの関係が、
もう「現在進行形」ではなくなったということ。
あの頃は、学校に行けば、当たり前にいて、
会おうと思っていようが いまいが、会ってた。
「偶然会う」というのとも、ちょっと違う。
行けばいるだろうな…という予測はあるから。
でも、卒業したら、そんな風にはもう会えない。
卒業してもお互いの連絡先は知っていて、
また、会おうと思えば会えるのだから、
「会えないから」は ちょっと正確ではない。
その寂しさとは なんか違う。
大事なのは、「そんな風」の部分なのだろう。
卒業してから分かったことがある。
現在進行形でなくなった今の僕らが
「会う」ためには、
会いたいという「意志表示」が必要で、
会う「理由」がないと難しくて、
会おうねという「約束」が欠かせない。
その時は必要なかった色んなものが、
今は必要になった…ということ。
僕らはもう、それナシでは
会うことができなくなってしまったんだな。
終わる訳じゃなく、続くかもしれないけれど、
現在進行形ではなくなってしまうこと。
それが、僕の思う「寂しさ」の正体。
■現在進行形という価値
連続ドラマや、連載漫画も、
後で改めて見返したり、
まとめて一気見するのとは、なんか違う、
「リアルタイムで見る」良さがあるよね。
得られる「情報」としては 同じでも、
「経験」としては 全然違ってる。
現在進行形で共有している、
「時間の流れ」があり、「待ち合わせ場所」がある。
それらには、
現在進行形だからこその意味がある。
文字や映像による記録は どうしたって、
その時を「切り取った」ものに過ぎない。
連続した時間や、
それにリンクする心境とか 感情とか 体調とか、
その「流れ」の中でしか感じられないものが 絶対にあって、
でもその流れの中には二度と戻れなくて、
それを記録しておく方法もなくて。
今を逃すと失われていってしまう、
そういうものが「現在進行形」の価値なんだな。
今が過去になって、
価値が無くなる訳じゃないけれど、
「だった」や「していた」になるだけで、
意味が変わり、感じ方が変わり、ちがう価値になる。
だから、旧友と久しぶりに会ったら会ったで、
良い時間だったけど、やっぱり何かが違うんだ。
過去や未来ばかり見ていても、
今が疎かになってしまって 良くない。
でも、たまに振り返るから、
今を大切に感じられるんだよね。
今が今であるうちに、
今をしっかり味わっておかないとな。
おわり。良いお年を。