防災減災のための地域づくり No.5 災害復興へ生活再建
この記事は #防災減災の地域づくり のために「コミュニティづくり研究所」が提供します。「NHK地域づくりアーカイブス」の事例動画に学ぶ資料です。NHK地域づくりアーカイブスは過去のNHKの多くの番組から「地域づくり」の良い実践例(good practice)の動画(視聴時間5~10分間程度)を集めたアーカイブスサイトです。このアーカイブスの地震や豪雨の災害に関連する動画から、私は① #災害避難 、② #防災のまちづくり 、③ #避難所運営 、④ #災害復興 、等の実践を紹介する事例を幾つか選びました。①から④のそれぞれのテーマに含まれるアーカイブ動画を視聴し、私なりに学び考察したことを纏めました。過去の良い実践例を学び、防災減災にむけた地域づくりについて考え、計画し、行動するための参考資料として、「 #自主防災組織 」などみなさまの地域社会に少しでも役立つならば幸いです。
「防災減災のための地域づくり」シリーズでは下記の第Ⅰ章から第Ⅴ章の記事を提供します。この記事は「Ⅴ 災害復興へ生活再建」です。
Ⅰ 防災のまちづくり
Ⅱ 災害避難
Ⅲ 避難所運営
Ⅴ 災害復興へ生活再建(この記事)
Ⅴ 災害復興へ生活再建
「災害復興へ生活再建」で扱う「NHK地域づくりアーカイブス」の動画の事例は、大きく分類すると、A.「 #生業活動 」B.「 #生活再建 」C.「 #文化を守る 」です。従って今回の「Ⅴ 災害復興へ生活再建」の内容は以下の通りです。
A. 生業活動
●「生業活動」の事例動画の詳しい内容とリンク
B. 生活再建
●「生活再建」の事例動画の詳しい内容とリンク
C. 文化を守る
●「文化を守る」の事例動画の詳しい内容とリンク
A. 生業活動
事例動画(1)から(13)は「災害復興へコミュニティづくり」に関する事例です。それぞれの事例動画の詳しい内容とリンクは以下の●印の見出しで紹介します。各事例動画はインターネットのリンクで視聴時間5~10分間程度です。
「生業活動」の事例に見られる特徴は以下の通りです。事例の(1)から(5)までの生業活動において共通する要素があります。復興や町おこしの特産物にしようと生産したのは地域の伝統的な産物でした。福島県川内村ではお餅、葛尾村では「凍みもち」、飯舘村では「までい着」、浪江町ではエゴマ、新潟県山古志地域では「かぐら南蛮」など多くは農産物です。地域の文化に根付いていた物です。その生産者の多くは、仮設住宅などで困難な避難生活を続ける中で、元気を取り戻そうとした女性の仲間たちでした。生産の動機は避難者たち自身の心のケアと密接に結びついていました。目的をもって共同で生業活動に励みながら、生き甲斐を取り戻していったのです。その生業活動は雇用や収入にも貢献しました。(6)の災害ガレキ処理の事例は一時的な活動ですが、経済効果もあったので便宜的に生業活動に含めました。この事例でも仮設住宅に避難していた人たちの心のケアと雇用・収入という大切な要素は、前の5つの事例と同様です。(7)と(8)の事例には、原発事故によって生活を破壊された住民が脱原発を志向する、強い意思が根本にあります。当面は農地を食料生産に使用しないで、ソーラーパネルの用地として使います。同時に牧草地としても使い、伝統の畜産に利用しながら、農地を保全することもできます。雇用を生み出して避難住民の帰還を促進する希望もあります。(6)から(8)の生業活動では知恵やアイデアが共通の特徴です。以下に動画事例の要点を述べますが、事例の詳しい内容はその後の●印の項目で紹介します。
(1)福島第一原発の事故で川内村に残った住民はおよそ6割です。「復興サポート」の会合で川内村をどうすれば再生できるか話し合いました。村おこしの宝物を探していた民俗研究家の結城さんは、代々米を作ってきた農家で特別なお餅を見つけました。災害を乗り越えてきた村の歴史を復興サポートの会で学んだ住民はもち米づくりを始めました。12月にもち米で餅つきをして、1,700個の鏡餅を村から離れて暮らす福島県内外の避難者に届けました。
(2)高齢化していた福島県葛尾村の住民は、伝統の「凍(し)みもち」を村おこしの起爆剤にしようと考えました。村の女性たちは1990年に加工場を建設し、凍みもちは村の特産品になりました。しかし原発事故で加工場は閉鎖されました。原発事故による避難指示の大部分は解除されましたが、今住んでいるのは72人で震災前の20分の1です。住民は凍みもちを復活させることで村の復興を支えたいと思い、凍もちの加工場を再建することにしました。村の人は早速村に帰って、凍みもちに入れる葉っぱを育て始めました。
(3)福島県飯舘村の農家に嫁いだ若い女性のヨーロッパ研修旅行「若妻の翼」は主体的に農業に取り組む女性を育てました。震災前まで有機農業が盛んで女性が元気に活躍していました。福島第一原発の事故後、福島市の仮設住宅に入居した高齢者は途方に暮れていました。古い着物を再利用する村伝統の「までい着」に注目して、裁縫教室をリーダーが始めると、仮設の女性たちはまでい着づくりに励みながら元気を取り戻しました。までい着を全国に販売して復興のシンボルにしたいと考えています。
(4)石井さんは福島第一原発の事故で故郷の浪江町から避難し、福島市で暮らしています。復興支援の青空市場で販売しているのは、石井さんと避難所で知り合った3人の女性たちが避難先で育てた野菜、果物、手作りのジャムなどです。お客さんの笑顔で石井さんは元気を取り戻しました。町役場から依頼され、浪江町特産のエゴマの実証栽培にいま取り組んでいます。石井さんは浪江町で古くから作られていたエゴマを、町の未来を担う特産品にしたいと願っています。
(5)中越地震の2か月後、長岡市の仮設住宅が完成し星野さんの避難生活が始まった。行政や支援者の協力で、仮設の被災者が一緒に畑仕事をする共同農園が誕生し「畑の学校」と名付けられた。共に汗を流すうちに気心が知れ、集落を超えて人と人の繋がりが生まれた。当時、畑の学校には40人の主婦が参加。沢山の野菜ができたため長岡市の直売所に出した。生き甲斐が生まれお小遣いが手に入り、星野さんたちは元気になった。
(6)仙台湾に沿った平野に位置する東松島市では家屋の7割が津波で被災しました。ガレキの仮置き場は東京ドーム3個分の広さで膨大な量でした。10種類に分別したガレキの中でも一番厄介なのは、さまざまなものが混合したガレキ26万トンでした。このガレキを仮設住宅にいた被災者たちの手作業の人海作戦手で分別しました。その結果、被災で気持ちが折れていた住民は分別作業で元気になり、収入を得ることもできました。99%のリサイクル率を達成して、730憶円かかると見込まれた処理費用が150憶円も削減できました。
(7)原発事故後、福島県は原子力に依存せず、2040年までに100%再生可能エネルギーを目指すと決めました。酒屋を営む佐藤彌右エ門さんは2013年に電力会社を立ち上げました。佐藤さんの夢は安心安全なエネルギーの地産地消です。佐藤さんが気になる飯舘村でも、復興の道を開きたいと考え、村の仲間と飯舘電力を設立しました。社長の小林さんは村の使われていない農地で、ソーラー発電をするために、農地の転用を正式に申請したが許可されませんでした。この農地転用問題を解決するために、パネルの下で農作物を育てるソーラーシェアリングに注目しています。この事例の話は次の(8)に続きます。
(8)福島県飯舘村は避難指示が解除され、6年ぶりに暮らせるようになりましたが、農地は荒れたままです。飯舘村に暮らすのは震災前の人口6500人から現在の546人で1割以下です。村に戻った畜産農家の小林稔さんは電力会社を設立し、除染された農地に太陽光パネルを設置し、電気を売って収入を得るとともに、荒れてゆくばかりの農地を守ろうとしています。そこで考えたのは太陽光発電と畜産を同時にする新しい農業です。パネルの下で育つ牧草を牛が食べて地域に畜産を復活させます。太陽光パネルのメンテナンスを行う会社もできれば地域に雇用も生まれます。
●「生業活動」の事例動画の詳しい内容とリンク
(1)村の宝の餅文化の歴史を学び若者がもち米づくりを再開:「住民同士をつなぐふるさとの餅」(2016年放送、以下同様)。いまでは村の大部分に人が住めるようになった福島県川内村。人口2700人の内、村に残ったのはおよそ6割でその多くは高齢者。去年1月の「復興サポート」の会合では、川内村をどうしたら再生できるか話し合った。復興サポーターとして民俗研究家の結城さんを招く。結城さんは主に東北の農村漁村を歩き、その土地ならではの宝物を見つけて、地域おこしを成功させてきた。住民の声「イノシシが出てきて田んぼはできない。仕事はない。年金は国民年金で安い。これからどうして生活しようかと不安」。結城さんは「ない物ねだりより、ある物さがしが大事。小さくてもよいから、楽しい場を地域おこしに繋げていく。そんな力を合わせられないか」。結城さんは川内村で宝探しを始めた。代々米を作ってきた農家で特別な宝物を見つけた。ある農家の神棚。季節ごとにすべての行事をノートに記録している。年に40回餅をつく。神棚には3段重ねの異なる形と意味の餅を供える。上は太陽、中は畑、下は田。自然の恵みへの感謝の思い。村のお餅の文化には歴史があった。村のあちこちの講塚に石碑がある、講とは村人が夜通し祈りを捧げる行事。災害や飢饉の後、村人が再び立ち上がろうとする時、神や仏に祈った。例えば庚申講。村人が何度か当番の人の家に集まり、神を祀って、餅を食べ、酒を飲み、夜を明かした。回を重ね、最後に石碑を建てたのが講塚。農家の秋元美譽さんは「代々米を作っているから、昔だって飢饉とか自然災害があった。俺の時には現代の原発事故があったが、先祖もいろんな苦労をして、俺に田畑を送ってくるわけだから、俺の代になって止めるわけにはいかない」と言う。復興サポートがあった後、村でもち米を作り始めた秋元活廣さん。原発事故の後、両親は米作りを止めていた。しかし災害を乗り越えてきた村の歴史を復興サポートの会で学び、もち米づくりを始めた。秋元さんは車で1時間余りのいわき市で、福島第一原発の廃炉作業の仕事をしている。幼い娘の健康を心配して村に戻っていない。復興サポートの二回目の会合では、分子生物学者河田昌東さんのもち米と放射性セシウムの話。福島の米は全量全袋検査で基準値以下であることを確認して出荷。震災直後のもち米を使ったデータを河田さんは示し、もち米に含まれる放射性セシウムは食べて全く問題がないレベル。10月、若い世代が集まって稲刈りをするのは初めて。12月、秋元さんのもち米で餅つきをして、鏡餅を作り、村から離れて暮らす人に届けることにした。1,700個の餅ができた。福島県内の避難者には秋元さんが届ける。いわき市の「四倉鬼越仮設住宅」に秋元さんが届ける。村役場では県外に避難している人たちに発送した。餅が届けられた船橋市の中野さんは娘の嫁ぎ先に身を寄せている。年が明けて村役場には餅の贈り物に対して、たくさんのお礼の手紙が届き、心と心が繋がった。
(2)避難指示解除で凍みもち加工場を再建し村の復興を支えたい:「凍みもち復活を目指す葛尾村のかあちゃんたち」(2016年)。福島の阿武隈山地の山あいの葛尾村。原発事故による避難指示の大部分は解除されたが、今住んでいる人は72人で震災前の20分の1。村の特産品であった「凍(し)みもち」の加工場を再建することになった。加工場の経営者松本富子さん。松本さんは凍みもちを復活させることで村の復興を支えたい。葛尾村で育った松本さんは、1990年に53歳で「ふるさとのおふくろフーズ」を設立した。葛尾の郷土料理の生産販売を始めた。力を入れていたのが凍みもち。凍みもちは餅に菜っ葉を混ぜて、冬に凍らせて作る保存食。凍みもちの発祥は江戸時代と伝えられている。飢饉の時は粟や稗を混ぜ、米のない冬に命をつないだと言われている。しかし戦後、作るのに手間がかかるので、凍みもちは次第に消えつつあった。村も高齢化で元気をなくしていった。松本さんは凍みもちを村おこしの起爆剤にできないかと考えた。1990年に村のかあちゃん仲間に声をかけ「ふるさとのおふくろフーズ」を設立。自宅の横に加工場を建設した。最初は村の家庭の味をお金に換えることへの反発もあった。誰もが納得する味を求めて、3年がかりで商品を完成させた。冬に母は一生懸命凍みもちを作っていたから、いつの間にかかあちゃんの味になった。凍みもちの販売を始めると、昔ながらの味が人気になり全国のスーパーに進出した。2010年に売り上げは年間1千万円に達した。翌年3月に原発事故が起きた。おふくろフーズは解散し工場は取り壊された。現在は福島県三春町の復興住宅。娘夫婦たち4世代10人で暮らす。2016年6月葛尾村の避難指示が解除され、住むことが可能になった。再び加工場を作りゼロから出発する。近所の人には餅に入れる菜っ葉(ごんぼっ葉)を作ってくれるよう声を掛けている。村の人は村に帰ってすぐにごんぼっ葉を育て始めていた。
(3)避難生活の中で村伝統の作業着の商品作りが希望の種:「『までい着』作りで避難生活を乗り越える飯館村のかちゃんたち」(2016年)。福島市にある仮設住宅。談話室に集まっているのは飯舘村から避難してきた女性たち20人。古い着物を再利用して様々なものを作っている。女性用の作業着「までい着」を作っている。「までい」とは方言で丁寧に・物を大切にするという意味。他にも帽子なども作る。仮設住宅で作られた商品は東京池袋の化粧品店でも売られている。飯舘村には2016年時点で避難指示が出され、住むことはできない。メンバーたちは福島市から定期的に村の倉庫に通っている。ここに保管されているのは、までい着に使われる着物。震災後全国から寄付されたもの。着物を見てどんな商品にするか皆で話し合う。グループのリーダーは佐野さん。までい着を全国に販売して復興のシンボルに育てたい。「温かい心で支援されているので私たちは感謝している。この支援の着物を使い切るまで私は続けなきゃならない」と佐野さんは言う。佐野さんは若いころから村づくりのリーダー。22歳で結婚して、野菜作りや家畜の世話に忙しくしていた。佐野さんのそんな日常を変える出来事は、農家に嫁いだ若い女性のヨーロッパ研修旅行「若妻の翼(1989年)」。佐野さんは研修先のドイツで、女性たちが単なる働き手ではなく、自ら考え主体的に農業に取り組む姿に衝撃を受けた。「人間は主体的な生活をしないといけないと気付いた。豊かな暮らしは自分の頭と体で考えて働かないと実現しない。少しずつ変わっていって、私の人生を変えていこう」。葉タバコの栽培を任せてもらい、その拡大や野菜の無農薬栽培に取り組む。飯舘村初の農業委員会会長にも就任。「自分たちの動きが地域を少しずつ変えていける。自分の考えるようにできる、と思って面白みが出てきた」と佐野さん。有機農業が盛んで女性が元気に活躍していた飯舘村。そこに原発事故が起きた。佐野さんは福島市の「松川第一仮設住宅」に入居した。仮設には多くの高齢者が途方に暮れていた。飯舘村でリーダー的な存在だった、一人暮らしの80代の女性に佐野さんは仮設で会った。その女性は避難生活の中で部屋に閉じこもりがちになり、心を閉ざしていた。その女性が着ていた服に目がとまった。古い着物を自分の手で作り直したもの。「実家の親も私が小さい頃、着物を直して着ていた」。佐野さんはその女性を先生として裁縫教室を開いた。女性たちが次々に集まってきた。仲間と一緒に作業をする中で、女性たちは元気を取り戻していった。しかし震災から5年経った時、佐野さんが癌で体を壊した。また、飯舘村は来年3月に一部を除いて避難指示が解除され、自宅に帰れる見通し。村に戻ると仮設住宅のようにいつも気軽に集まれる場所がない。佐野さんたちは課題を抱えているが、「みんなで輪になって、飯舘村に行っても続けていこう。苦難の道は開かれると思う」と佐野さんは言う。
(4)エゴマを被災した町の未来を担う特産品に:「避難生活から立ち上がる女性たちのエゴマ油」(2016年)。福島県深川市で復興支援のための青空市場が開催された。石井絹江さんは福島第一原発の事故で故郷の浪江町から避難し福島市で暮らしている。販売しているのは避難先で育てた野菜や果物、手作りのジャムなど。石井さんは避難先の福島市に食品の加工場を建てた。一緒に活動するのは避難先で知り合い仲良くなった3人の女性たち。この日は故郷の食材を使って新商品ができないかと試食会。石井さんは今も時々故郷浪江町の自宅に戻る。自宅のある赤宇木地区は、放射線量が高く帰還困難区域に指定され、許可がなければ入ることはできない。震災前まで暮らしていた。住んでいないと、イノシシやイタチによって家が荒らされてしまう。家庭菜園の畑には食べる野菜を全部四季折々に作っていた。「これは私の故郷で、帰れなくても時々来たい所。ここがあるからこそ福島市でも頑張れる」。浪江町は今も全町避難が続き、2万1千人の町民すべてが避難を余儀なくされている。石井さんは震災前まで3世代8人で暮らしていた。しかし仕事や学校の都合で長男家族と別れ、夫と二人で暮らしている。震災でふさぎ込んでいた石井さんの転機は、自分と同じように避難生活を送る女性たちのグループと出会ったこと。石井さんはメンバーとともに畑を借りて、自分たちが作った野菜を売る活動を始めた。お客さんの笑顔で石井さんは元気を取り戻した。石井さんは福島市に1ヘクタールの農地を購入。野菜を育て加工販売まで自分たちでしている。すべての商品について放射能検査を行っている。さらに今年、石井さんは新たな試みを始めた。浪江町にある20アールの畑にエゴマを作付けした。町役場から依頼され、浪江町特産のエゴマの実証栽培に取り組んでいる。この日、浪江で収穫したエゴマから油を搾る。エゴマは古くから浪江町で作られていた。食べると10年長生きするという言い伝えから「十年」と呼ばれ、餅にからめて食べられていた。絞った油から放射能は検出されなかった。石井さんはエゴマを浪江町の未来を担う特産品にしたいと願っている。町役場で3年後に完成予定の道の駅に関する意見交換会が開催された。石井さんはエゴマを道の駅の主力商品にしたいと提案した。搾りたてのエゴマ油の味を見て欲しいと思って持ってきた。最近、健康に良いとして人気の高いエゴマ油。道の駅の商品に育つのではないかと前向きな意見が相次いだ。
(5)中越地震から12年、旧山古志村の復興:「共同農園から生まれた“楽しみの場”」(2016年)。新潟県旧山古志村は現在の長岡市山古志地域。人口1000人の山里。賑わっている場所は農産物の直売所で合わせて10か所ある。野菜を目当てに多くの観光客が訪れる。山古志で直売所を始めた星野さん。家の畑で特産品の「かぐら南蛮」など多くの野菜を育てている。山古志に沢山の直売所ができた切っ掛けは12年前の中越地震。2004年10月、震度6強の地震が襲った。道路は分断され住民は取り残された。星野さん一家も自衛隊のヘリコプターで救出された。地震の2か月後、隣の長岡市の仮設住宅が完成し避難生活が始まった。仮設の住宅ではお茶のみサロンなどさまざまな催しが開かれた。催しだけでは満足できなくなる。星野さんたちは田畑の土が恋しくなった。行政や支援者の協力で、被災者が共同で畑仕事をする共同農園が誕生し「畑の学校」と名付けられた。共に汗を流すうちに気心が知れ、集落を超えて人と人の繋がりが生まれた。当時、畑の学校には40人の主婦が参加。沢山の野菜ができたため長岡市の直売所に出した。生き甲斐が生まれ、お小遣いが手に入り、星野さんは元気になった。地震から3年後の2007年に星野さんは避難生活を終えて山古志に戻った。仮設住宅で知り合った仲間との交流は今も続く。荒れていた耕作放棄地を借りて一反の畑をつくる。「山古志畑の学校」と命名。仲間はそれぞれ違う集落に住むが、畑では一緒に作業。「一人では何もできないけど、グループができているのは心強い」と星野さん。中越地震から12年。山古志村の広場にさまざまな特産物を売る店が並ぶ。星野さんたちも直売所を開く。かぐら南蛮も出品。「ここではお客さんとの対話が楽しい」。地震前に3か所だった直売所は今10か所に増えた。畑の学校で知り合った女性たちが、思い思いの場所で直売所を開いた。山深い山古志に交流の輪が広がり、村に楽しみの場が増えた。その後の2016年、震災に遭った熊本県南阿蘇村の集会に星野さんが参加。「私たちは集落ごとに仮設住宅に入ったので、皆さんは朝起きても周りの人に元気かと話ができた。だから周りに誰かがいてくれると心強かった。集落の人が一緒に仮設に入れると良い。家にこもらないで自分から外に出て、仲間を作ると悩みでも話し合える。仲間は素晴らしいと思う。みなさんも震災で大変だけど、自分たちがやればできる気持ちで前に進んで欲しい」と星野さんは被災体験を話す。南阿蘇村の深刻な農業被害の実態について報告。南阿蘇村で棚田の景観が美しい袴野地区を訪ねる。古庄さんの築100年の家は全壊の判定。棚田に亀裂が入り田植えはできなかった。残っているのは古庄さんの一反の家庭菜園。袴野地区の住民は昔から家族のために菜園で野菜や果物を作ってきた。いま菜園を耕しているのは数人のみ。「農地はいっぱい余っている。何も植えないでただ空いている。もったいない」と古庄さんは言う。
(6)災害ガレキ処理が被災者の心のケアと地域復興の資源に:「大量の災害ごみが地域の復興の糧に」(2020年)仙台湾に沿った開けた平野に位置する東松島市。4万人の住民が農業や漁業に従事する。市内の家屋の7割が被災したが、住宅の再建もほぼ終わり復興が進んでいる。道路工事の会社を経営する橋本孝一さん。震災の時、橋本さんは市内の建設業者を束ねてガレキ処理の司令塔を務めた。ガレキの収集から処理まで一貫して引き受けた。この空き地でガレキの手選別が行われた。震災後いち早くここを借り上げた。「ガレキは言葉に表せないほどの量だった」。震災の翌日から建設業者が動き始める。東松島市はガレキの処理にかかる費用について困難な課題。処理経費は市町村で負担するのが原則。「ガレキ処理は多額な費用がかかる。ガレキ処理に一歩間違うと大変」と当時の阿部市長。2003年7月の宮城県北部地震ではさまざまなガレキが混合した状態で持ち込まれたため、分別し直す必要があった。「一番お金がかかるのが分別すること」。当時8億円と見られていた費用は12億円に膨れその半額が地元の負担になった。市長はこの失敗を繰り返さない覚悟。橋本会長と市長は分別することで合意。海沿いの東松島市の仮置き場は東京ドーム3個分の広さ。その場内を10の区域に区分けし、ガレキを搬入する時から10種類に分別。住民が直接置きに来ても間違えないように、看板だけでなくゴミの見本を置くなどの工夫。コンクリート、畳などを広大な敷地に積み上げた。一番厄介なさまざまなものが混ざり合ったガレキは26万トン。この混ぜこぜの山に挑んだのが地元東松島市の住民たち。ガレキを大きな鉄板に広げて、手で分別する前代未聞の人海作戦。仮設住宅にいた被災者たちが分別した。橋本さんが声を掛け働いてもらうことにした。「なんで原始的なことをやるかというと、被災地で仮設住宅に入っている方々が、鬱的な方々が増えてきたこと、お金が入らないと先が見えない。ならば雇用として生み出そうという形から始まった」と橋本さん。作業員の大友さんは毎日夫と一緒に処分場に通った。「ガレキの山の前に座ってマスクをして、ヘルメットを被って、厚手の手袋をして選別する。石は石、ロープはロープ。雨も降ってくる、雪も降ってくる、夏場はもう背中が焼かれる、やはり腰にこたえた。お風呂に入るとほこりで真っ黒」と大友さんは言う。手間はかかるが確実に仕分けることができる。金属やプラスチックなどに分解しながら19種類の品目に分けた。被災者たちは分ければリサイクルできる、を合言葉に作業。高齢の被災者には体力的に厳しい作業だったが、月におよそ20万円の賃金が支払われた。「おじいさんの施設にお金を払えるし生活も潤った」「やはり手選別で私たちの生活を守ってくれた。上の人がやっぱり良かった。私たちの痛みを分かってくれた」と元作業員。分別と並行してリサイクルが始まった。金属は5種類に分別して、業者に高い値段で売れた。2億円の売り上げは全額が市の収入。コンクリートは細かく砕かれ、復旧する道路の基盤材。タイヤは金属が含まれているために簡単に処理できず、復旧の早かった市内の業者に引き取ってもらい、細かく砕かれ、東北地方の製紙工場の燃料として使われた。最後に残った大問題は津波が運んできた海底の土砂のヘドロ200万トン。営林署が海岸の松林を再生するのに、ヘドロから作った土を使いたいと申し出た。土地は津波で穴が開き地盤沈下が激しかった。ヘドロを盛り土として使った。34万本の苗木がヘドロを加工して作った再生土に植えられた。ヘドロを再生土にリサイクルする道を開いたのは木材。燃やして処分すれば手間がかからないが、橋本さんは木材ガレキを細かく砕き水をかけて土になるまで腐らせた。その土をヘドロと混ぜ、ヘドロを再生土として蘇らせ、故郷を復興する資源として活かされた。「低い所をよそから土を買ってきて埋めるお金と、ヘドロを処理するお金が浮いたので経済的な効果があった」と橋本さん。宮城県内の代表的な市町村のガレキ1トン当たりの処理費用を比較すると、東松島市が1万7千円/トンで、県内全市町村の平均費用の半分になり最も低い金額。手作業による選別は経済だけでなく、思いがけない潤いを人々にもたらした。「被災で気持ちが折れていた方々がここに来て、みんな元気になった。みんなの力で成し遂げた。これに感謝」と橋本さんは作業員に話す。「最初はお金を渡すことが目的だった。しかし収入を得ると同時に、やりながら心のケアが一番大事になった」。東松山市だけで730憶円かかると見込まれた処理費用が150憶円も削減できた。リサイクル率は99%だった。「大事だったことは、ガレキは昨日まで皆さんの財産だった。それを丁寧に選別する。丁寧ということは無駄になるものを無くして分別できた。東松島方式は良かったことが、今でも気持ちの中に大きくある」と橋本さんは言う。
(7)地域の再生のために今できる再エネ事業を推進:「酒屋と農家が挑むエネルギーの地産地消」(2016年)。福島県会津地方は日本有数の豊かな穀倉地帯。山々が育む豊かな湧き水に恵まれた喜多方は酒どころとしても知られている。弥右エ門の酒蔵は1790年に創業し江戸時代から200年以上酒を造り続けてきた。九代目当主、佐藤彌右エ門さんが震災後新たに電力会社を立ち上げた。2013年8月に誕生した会津電力株式会社は、地元の資本や市民ファンドのお金などで成り立つご当地エネルギー会社。「原発事故に遭って今年でもう5年、新しい福島を作る」。従業員は20人。子供たちの未来のためにという志に共鳴し、仲間が集まった。太陽光に加え将来は小水力、風力、バイオマスなど12MW、およそ4000世帯分の発電を計画している。これまでに運転を始めた太陽光発電所は48か所で目標の三分の一。合計およそ4MWの電力を生み出している。「あれが2100メートルの飯豊連峰、ここは1000KWつまり1MWの太陽光発電、通称は雄国発電所。雪国でのソーラー発電所だからひと工夫ある。雪が降っても積もらないよう傾斜角度が30度、高さが2.5メートルで積雪が多くなっても、パネルが雪に埋まらない」。原発事故後、福島県は原子力に依存せず、2040年までに100%再生可能エネルギーを目指すと決めた。事故を起こした原発は東京のために電気を送り続けていた。福島の自然エネルギーは地元の会社が作り地元で使う。彌右エ門の夢はお金が地域で循環するエネルギーの地産地消であり「未来永劫安心安全なエネルギーを自治体が自分たちで作り使い、余剰をためてさらにインフラを作る」。福島で再生可能エネルギー100%を目指す彌右エ門にとり、気がかりなのは今も全村避難が続く飯館村。彌右エ門は酒造りを通して飯館村と深い縁がある。30年ほど前、飯館村の村おこしのために酒の醸造を頼まれ、以来彼の酒蔵で作ってきた。震災時に彌右エ門は支援に駆け付けた。「水を2トン車につめて飯舘村に行った。戦争のような状態だった」。飯舘村が自然エネルギーを生み出せれば、復興の道が開けるのではないか。彌右エ門は村の仲間と飯舘電力を設立した。社長を務めるのは飯舘村の農家小林稔さん。小林さんは避難先の会津で彌右エ門の酒蔵の米作りを手伝っている。小林さんは彌右エ門を信じて、村で太陽光発電にかけてみることにした。飯舘電力の社長小林稔さんが挑む太陽光発電事業の2か所目の工事が始まる。この土地は原野だったのでパネル着工までの手続きは順調に進んだ。飯舘電力ではさらに使われない農地を発電用地に使おうと計画している。農家仲間に声をかける。ちゃんと管理をしてくれるなら、太陽光パネルのために農地を使うことを仲間は了承した。「米なんて作ったって風評被害でとても米はまだ売れない。夢も希望も無くなった。やれることをやるしかない」。農地を農業以外で利用するには特別な許可が必要だが、小林は村役場で前向きな感触を得ていた。「太陽光発電で収入を得ながら次の仕事を作ってゆく。そうすると何人か戻る人がいる。今度いろいろな仕事を見出せればよい」。ところが現実はそう甘くなかった。太陽光発電のための農地の転用を正式に申請したところ、許可が下りなかった。さらに東北電力のホームページに驚くべき情報が発表されていた。送電線および変電所の空容量を示すマップ。会津電力では再エネの電気を東北電力の送電網に接続し、買い取ってもらう前提でビジネスを進めていた。しかし会津地方のすべてで高圧線への接続可能な量がゼロになっていた。東北電力では将来原発が再稼働した時に見込まれる量も含め、安定的に接続できる電力量を計算して確保している。その残りを再エネの会社に許可しているが、会津では送電網が貧弱で枠がすでに一杯。このままでは大規模な再エネの発電所からの接続は許可してもらえないかもしれない。接続容量がゼロになるかもしれない逆風をどう乗り越えるか。改善を求めていくと彌右エ門は言う。飯舘電力の農地転用問題を突破するアイデアは無いか。注目したのは新しいソーラーシェアリングの方法。パネルなどの下で育てるのは野菜などの農作物。これならパネル設置の許可が下りる見込み。セシウムの半減期は30年。先ずは食料以外の牧草地から始めて時の経過を見る。「仮に2000人くらいしか村に帰らなくても、20年経ったら分からない。次の世代の人たちが何とかしようと思ってくれればまた違うことができる。どういう方法でも村が存続できれば良い」と小林さんは言う。この事例の話は次の事例(8)に繋がっています。
(8)太陽光発電で発電収入と畜産復活を実現し農地を守り地域に雇用を生む:「太陽光発電でめざす畜産の村再生」(2018年)。福島県飯舘村は去年3月避難指示が解除され、6年ぶりに暮らすことができるようになった。しかしほとんどの農地は今も荒れたまま。膨大な量の除染廃棄物が山積みになっている。飯舘村に暮らすのは震災前の人口6500人から現在の546人で1割以下。村に戻った一人は畜産農家の小林稔さん。小林さんは自ら電力会社を設立し、太陽光発電に取り組んでいる。除染された農地に太陽光パネルを設置し、電気を売って収入を得るとともに、荒れてゆくばかりの農地を守ろうとしている。「農業を再開するのはかなり厳しいと思っていて、一番取り組みやすいのが太陽光による売電の収入。仕事も増えてくれば、村の人が戻ってくるきっかけになるかと思った」と小林さん。小林さんの太陽光発電は農業と同時に行える。太陽光パネルの高さと支柱の幅はトラクターが走れるように設計されている。除染した農地には牧草を植え、畜産が盛んだった飯館の復活を目指す。小林さんは村に帰るに際して自宅を立て替えた。6年の避難生活で野生動物に荒らされ、家を取り壊した。家の近くには太陽光パネルが設置され、新しい牛舎が建てられている。もうすぐ牛がここに運ばれ畜産を再開する予定。太陽光でお金を頂いて、牧草をつくり牛に食わせると、一石二鳥や三鳥にもなる。小林さんが太陽光発電を始めるきっかけは、6年間に及ぶ避難生活にあった。小林さんは震災前に飼っていた牛と共に宮城県の蔵王町に避難した。蔵王町では育てていた牛の品質を証明したいと懸命に育て、宮城県内の品評会でも好成績を収めた。飯館に帰るに際して考えた。飯館村で牛を育てても、牛に以前のような値段はつかないだろう。そこで考えたのは太陽光発電と畜産を同時にする新しい農業のあり方。「ただ前を向いているだけ、故郷だから何とかしたいという思いがある」。小林さんの電力会社で新たな取り組みの話し合い。太陽光発電をさらに村に広げるために、リース方式でソーラーパネルを設置したい。今までの方法はパネルの購入に大きな借入資金が必要。リース方式では金融機関からの融資の借入は無く、リース会社からソーラーパネルを長期間借り受ける。それを農家の土地に設置し、売電収入を農家への借地料とリース代に充てる。こうすれば最初パネルにかかる初期費用が大幅に減り、発電する場所を増やすことができる。ここはリース方式で作る最初の発電所で面積は10アール。農家は年間4~5万円/10アールの借地料を受け取る。新たな発電所にする農地を訪ねた。土地は一度除染したが、農業の再開は難しく、荒れたまま。荒れた農地をこのままにすると山に還ってしまう。小林さんは太陽光発電をしながら、農地を守ろうとしている。小林さんが描く飯舘村の未来は、村内80か所に太陽光パネルを設置し、生み出された電気で1200世帯の電力を自給する。パネルの下で育つ牧草を牛が食べて地域に畜産が復活する。太陽光パネルのメンテナンスを行う会社もできて地域に雇用も生まれる。
B. 生活再建
「生活再建」を扱う事例の(9)と(12)は住居の確保や住宅の再建が課題です。生活再建のためには弁護士、建築士、フィナンシャルプランナー、福祉・医療関係者などの専門家が連携して支援する「災害ケースマネジメント」という新たな手法が求められます。特に経済的な問題解決のために資金計画が必要になります。(12)では様々なボランティア団体が住民の生活再建の支援をしました。事例(10)は商人、事例(13)は農家が生業を継続するために奮闘する話です。事例(10)は被災住民が町に住み続けて、その消費生活を支える商店を再起させる努力です。商人の生業再建であると同時に住民の生活再建でもあります。その観点から事例(11)では、町への住民の帰還は始まったものの、住民が生活するために必要なスーパーや医療機関が無い不便な生活の現状が紹介され、生活再建の課題が明らかにされました。以下に動画事例の要点を述べますが、事例の詳しい内容はその後の●印の項目で紹介します。
(9)東日本大震災の後、宮城県石巻市を拠点にボアランティア団体「チーム王冠」は「災害ケースマネジメント」をいち早く手掛けました。災害ケースマネジメントはボランティア団体などが被災者の元に出向き、抱える事情や悩みを聞き課題を整理し、専門家同士が連携して、その被災者に最も相応しい支援計画を立て生活再建へと導きます。自治体が関わるケースも生まれています。西日本豪雨で被災した岡山県倉敷市真備町では市が支援体制「倉敷市真備支え合いセンター」を整えました。鳥取県は全国で初めて常設の組織「鳥取県災害福祉支援センター」を立ち上げました。
(10)震災で南三陸町の3300戸の家屋が流失損壊しました。被災者が近隣の町などに流出するにつれ、南三陸町の商店主たちは商売の先行きに不安を抱きました。支援物資を届けていた「ぼうさい朝市ネットワーク」の代表藤村さんに、商店主が商店街復活への思いを打ち明けると、藤村さんの呼びかけで全国の商店街の仲間たちが応援に賛同してくれました。震災から50日目に「福興市」を開き、全国の商店街から持ち寄られた名産品を売る店が30軒並びました。地元の商店は看板を掲げて、まだ生き続けていることを町民に発信しました。町おこしや復興において、この福興市がすべての原点になりました。
(11)福島県大熊町は福島第一原発がある自治体の中で、初めて一部の避難指示が解除されました。事故前の町の人口は11,505人でしたが現在は80人ほどです。大熊町災害公営住宅は50戸です。安心して暮らすためには入居者の繋がりづくりが必要だと住民は感じています。末永さんはもともと住んでいた自宅に戻りました。外出しても人と行き交うことはほとんどありません。末永さんの住む地域は120戸の内、帰還したのは4戸です。農地は除染されていても耕作する人がいません。町の調査では農業の意欲のあるのは1割に過ぎません。
(12)水害から復興に向けて動き出した真備町の大きな課題は町の空洞化です。住宅再建に向けた課題のアンケート調査の回答は多い順から、堤防工事の進み具合、住宅の建て替え・修繕の資金不足、工事業者の不足、二重ローンになること、後継者がいないことです。水害への不安と住宅再建資金の課題を解決する方法はないかと、住民の松田さんは集会を主催しました。被災者の槇原さんは「川辺復興プロジェクトあるく」を住民たちに呼びかけて立ち上げ、「リカバリーカフェ」でフィナンシャルプランナー、司法書士などの専門家を招いて、住宅や教育などの資金計画についてアドバイスを受けています。「お互いさまセンター」の多田さんは高齢者や障がい者が一人で悩まないように支援します。
(13)熊本地震で最も大きな被害を受けたのは益城町東無田集落です。田んぼにはまだ地割れが残っています。震災直後、宮崎さんは田んぼを諦め、再起をかけてニラ栽培を始めました。ニラを益城町の特産物にしたいと考えています。東無田集落を元気にする取り組みの中心者の田崎さんは「東無田復興委員会」を結成しました。取り組みの一つはスタディツアー。外から来た人たちに震災直後の状況などを話し、災害時に何が大切か伝えています。集落の女性たちも「サークル絆」を立ち上げて、20人ほどの女性が集まり手芸などをして、ポーチや手提げ袋を作り販売しています。
●「生活再建」の事例動画の詳しい内容とリンク
(9)災害ケースマネジメントは専門家同士の連携で生活支援:「取り残された被災者を救えるか」(2021年)。東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市。ここを拠点に「災害ケースマネジメント」をいち早く手掛けてきたボアランティア団体「チーム王冠」の代表伊藤健哉さん。 災害ケースマネジメントはボランティア団体などが被災者の元に出向き、抱える事情や悩みを聞き課題を整理する。ポイントは専門家同士が連携することで、その人に最も相応しい支援計画を立て生活再建へと導くこと。専門家は弁護士、フードバンク、建築士、フィナンシャルプランナー、医療関係者、福祉関係者、大工など。伊藤さんは弁護士や建築士などの専門家と共に、宮城県女川町の被災者を訪ねた。80代の女性が暮らす家。「最大の問題は家が傾いていること」。専門家はボランティアで参加。地震の影響で傾いたままのため災害公営住宅への入居を希望。災害ケースマネジメントのポイント①は個別訪問して事情を聞き取る。弁護士が問題の詳細を聞き取る。「地震で死ぬ思いをした。役場に電話したけど断られたから終わりかと思った。それきり一切電話しない」と女性。「では罹災証明書と今言われてもどんなものか分からないですね」と弁護士。この女性は支援を受けるために必要な罹災証明を申請していなかった。この地域は津波を免れたため行政から見逃され、被災者とすら見做されていなかった。災害ケースマネジメントのポイント②は専門家との連携。建築士が家の傾き具合を調べる。建築士は「ここの傾斜は1000分の24、1000分の3が許容範囲、ここは住める傾斜ではない。地震の影響で基礎から変形している。危険を完全にオーバーしている。生活するうえでは健康を害するレベルを超えている」。医師は「手のマヒは大丈夫ですか」。さらに医師の提案を仰ぎ、女性を町の災害公営住宅に入居させたいという提案を町に行った。弁護士が役場を訪問した結果「基本的には一般公営住宅の申し込みは可能、役場の中の手続きは難しくない」との返事。町からは被災者としては認められないが、入居させる道を探るという回答を得た。「災害は家を壊すだけではなく生活そのものを壊す。その人その人で必要な支援が違ってくるので、災害ケースマネジメントという考えかたで取り組まなければ、被災者の再建とか復興はない」と伊藤さん。災害ケースマネジメントの担い手として、自治体が関わるケースも生まれている。西日本豪雨で被災した岡山県倉敷市真備町では、市が支援体制を整えた。「倉敷市真備支え合いセンター」が市の予算で被災した地区すべての世帯を調査し、支援が必要な人を見つけ出した。調査を元にボランティア団体が被災者を訪ねて必要な支援を行った。「ちょっと大工仕事とか、お手伝いできるメンバーがいて、ここに電話したらみんなでお助けができる」。この夫婦は「285万円の支援金を得たが、寝室の一部屋以外は直せなかった。災害ケースマネジメントのポイント③は計画的に生活再建を進める。修理に必要な材料は市の予算も活用して調達することにした。一年後にこの夫婦を再び訪問した。かつて靴を履かなければならなかった隣の部屋は、くつろげるスペースになっていた。「この上の天井も若い人が上がってきれいに掃除してくれた。床板も張ってもらいました。ほんまに良くなった」と住民夫婦。諦めていた修理が進むことで、気持ちが前向きになった。この災害ケースマネジメントの取り組みをさらに前に進めているのが鳥取県。次の災害に備え体制作りを進めている。5年前大きな鳥取県中部地震に見舞われた経験を踏まえ、平時からの準備を整えることにした。今年4月、全国で初めて常設の組織「鳥取県災害福祉支援センター」を立ち上げた。災害が起きる前から、被災者の把握方法や福祉スタッフの派遣方法など、体制を構築してその日に備える。「どういった形で訪問調査なり困りごとを聞く仕組みを作るか、日頃から考えておいて、関係性を保っておかないとなかなかできないと思う。それをするためには常設の組織を作って、それぞれの市町村の皆さんとどういうやり方をしたら、よりそれに近づいていけるのか、考えていきたい」と鳥取県危機管理局局長西尾さんは言う。
(10)復興も町おこしも商店主たちの心意気から始まった:「全国の商店街の応援で復活した市」(2017年)。3300戸の家屋が流失損壊した南三陸町。4月に入り被災者が近隣の町などに移っていく動きが本格化した。町から流出する人が増えるにつれ、商店主たちは商売の先行きに不安を抱くようになった。老舗のお茶屋を営んでいた自治会の副会長阿部忠彦さんは、若い世代が真っ先に町を出ていくことに、強い不安を感じていた。「小学校の親御さんは若いから、生活基盤の再建が第一だから躊躇なく出ていきます。うちも子育て最中だし高齢の両親もいるので、どうやって生業を作るのか、従来の地元型の商売が成り立つのか、考えました」と阿部さん。老舗の蒲鉾店を津波で流された及川善祐さんは、自治会で外部との交渉役。支援物資はありがたいけれど、それを受け取るだけでは商人として情けない、と及川さんは思う。「水から服から食べ物から人から支援で頂いたものを毎日食べている。商人が人さまから恵まれたものを食べ続けて命をつなぐのは、これは商人のやることじゃない。我々は皆さんに提供して喜んでもらって、皆さんが使うもの、食べるものを提供するのが商人じゃないか、何とかそういうことが出来るようにしたいものだと考えていた」と及川さん。及川さんたちは震災前、志津川の商店街でまつりや市を開き、地元でとれる海産物や加工品などを売りさばいてきた。これを復活させて再起のきっかけを掴みたい。しかし実現にはほど遠い状況だった。「私たちは当然何もない、道具も品物も製造工場もない、何かしなくちゃいけないと思っても、どこから着手したらいいかも、皆目見当もつかなかった」と阿部さん。そこに救いの手を差し伸べた人がいた。震災の一週間後から支援物資を志津川に届けてきた「ぼうさい朝市ネットワーク」代表の藤村望洋さん。全国34の商店街が加入し、災害時に支援物資を送り合ってきた団体に、志津川の商店街も以前から参加していた。及川さんは藤村さんに商店街復活への思いを打ち明けた。藤村さんが「今こそ全国の人の手を借りて、やるべきじゃないか」。及川さんは「僕らは何でもやると決めていた」。藤村さんは「では後押しして全国の商店街と連絡をとりましょう」。「そうしたら待っていました、とばかりに全国の商店街のネットワークの仲間たちが賛同してくれた。物もテントもお釣りも持っていくから、ダンボールで看板だけ書いておけ」と。「福興市」と命名し4月29日から2日開催することにした。早速商店主やボランティアを中心に福興委員会が結成された。委員長は魚屋の山内正文さん。最大の課題は財産を失った町民が買い物に来てくれるかどうか。山内さんたちは福興市だけで使える金券を発行し、無料で被災者に配ることにした。「せめて300円持って来て買ってもらえばいいだろう」と山内さん。金券は地元の商店主たちが負担することにした。志津川名物のタコにちなんで「タコ券」と名付けた。当時南三陸町には50か所の避難所があった。山内さんたちは一軒ずつ訪ねてタコ券を配り、福興市に誘った。300円でいろいろ買える仕組みになっている。震災から50日目の4月29日に福興市を迎えた。会場は志津川中学校。全国の商店街から持ち寄られた名産品などを売る店が30軒並んだ。岡山県、福井県、鹿児島県などから名産品。大勢の人がタコ券を使って買い物。店頭に志津川の商店の看板を掲げ、地元の商店はまだ生き続けていると発信。「これからも商売をすると伝えれば、お客さんは安心することが一番。私が町に残っても自分たちの生活を支えてくれる商人たちがいる、と町民が分かっただけでも、町は再生できると思う」と山内さん。福興市は町の外に移った人と、町に残った人たちとの再会の場にもなった。「よかったなー、あんたも生きていた」と生存を確認し合った。残念ながら亡くなった人の消息なども聞いた。「あちこちで抱き合って、泣いている風景をいっぱい見ました」。二日間で1万5千人のお客が第1回福興市に訪れた。全国の商店街の人たちは売り上げを義援金として寄贈した。志津川の商店主たちはそれ以降も、毎月の福興市を決めている。志津川の商店主たちは自分たちで仕入れたり加工したりして、商品を増やして自立を目指していった。2017年3月、南三陸町に「さんさん商店街」が復活した。28の店が軒を連ねる一角では、及川さんの蒲鉾屋や三浦さんや山内さんの魚屋が客を迎えた。これまで世話になったお客さんのために何ができるのか、避難所の運営も福興市もすべては商店主たちの心意気から始まった。「町おこしとか復興の話をする時、福興市なしで話はできない。福興市がすべての原点だと思っている。町作りに役立っていれば、それが商人の使命だと思う」と山内さんは言う。
(11)長年暮らした土地で生活を再建したい:「みんなで創る新しい町【1/4】始まった帰還」(2019年)。福島第一原発がある自治体として初めて一部の避難指示が解除された福島県大熊町。しかし町の大部分は今も帰還困難区域で立ち入りが制限。原発では今も廃炉作業が続いている。原発の周辺では除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の整備が進んでいる。これを含む町の大部分が帰還困難区域で、そこにかつての駅など町の中心部がある。4月に避難指示解除がでたのは大河原地区と中屋敷地区など町の南西部で、ここに新しく大熊町町役場と災害公営住宅が作られた。合図若松などに避難していた役場機能の大部分をここに移した。大熊町災害公営住宅は50戸。事故前の町の人口は11505人だが現在は80人ほどで、今も町民のほとんどは避難生活。故郷に帰ってきた人たちの思いはさまざま。会津若松で避難生活をしてここに移り住んだ山本千代子さん。去年夫の進彦さんを病気で亡くした。今山本さんが気になっているのは、各地から入居してきた人たちの交流が少ないこと。住民の多くが一人暮らしの高齢者。安心して暮らすためには、住民の繋がりづくりが必要だと感じている。「災害公営住宅のどこに誰が入っているか全然分からない。だから自治会は必要だと思うが、声を掛けてすぐ皆さんが出てきてくれるとは限らない」と山本さん。災害公営住宅のもう一つの課題は生活の不便さ。大熊町で食料品が買える店は仮設のコンビニが一店。予定されているスーパーなどができるのは再来年。町内にある総合病院の福島県立大野病院は立ち入りが制限される区域にあるので閉鎖中。町に医療機関はなく住民は隣町に行くしかない。住民はスーパーや医療機関が近くにできることを望んでいる。大河原地区ではもともと住んでいた自宅に戻った人もいる。その一人末永正明さんは長引く避難生活の中、南相馬市に家を新築し、妻と息子と暮らしていた。今回の避難指示解除を受けてここに一人で戻ることにした。「もう帰ってこられないと思っていた。諦めていたが、帰ってこられるようになった。育った所だから帰った。この年になって一人住まいするのは考えられなかった」。健康のために散歩をするが、人と行き交うことはほとんどない。末永さんの住む地域は120戸の内、帰還したのは4戸。末永さんが心配しているのは放射能の線量。線量計の線量が上がったり下がったりする。末永さんは線量計で家のあちこちを計り、確認しながら暮らしている。「時々女房が来て掃除をしてくれるけど、線量が高いと言って泊まらないで帰る」。末永さんが最も気になるのは家の近くにある山林。「こちらは除染していないから線量が高い。山菜はあるが食べる気はしない。環境省は何を考えているか分からない」。一方、農地は除染されているが、耕作する人がいないことが課題。町の調査では農業の意欲のあるのは1割に過ぎない。農業を再開したいと願う農家の新妻茂さん。4年前に通行の許可を得てここで野菜を作る。採れた野菜は放射能の検査をして、今はすべて検出限界値以下になっている。風評被害を気にしながら、どうしたら自分の農地を生かすことができるか、模索し続けている。「小さいうちからここで育って親父から引き続いているから。代々ここを守ってきた人から俺のとこで、全部ダメになったっていうのは嫌なんだ」と新妻さんは言う。
(12)将来の水害や住宅再建資金の不安を解消する取り組み:「支えあって防災のまちづくり【1/3】安心して帰ってこられる町に」(2019年)。岡山県真備町で伝統の夏祭り「千歳楽」が2年ぶりに蘇った。岡田地区まちづくり推進協議会会長黒瀬正典さんは「皆さん方に少しでも町に帰って頂けるように、景気づけをみこしでしたい」。町に戻った被災者は家を建設中の人も含め約4割。町に人と活気が戻った。市民は「いつも通り、毎年通りというのがすごく大事だ」と言う。壊滅的な被害を受けた農業も再生に向けて動き出している。米農家の古林士郎さんは水害後、初めての米の出荷作業。水害前と変わらない収穫を得ることができた。「普通に戻れた。自分の米も食べられるし、米を配ることができる」。真備町では米農家の8割が米作りを再開した。復興に向けて動き出した真備町の大きな課題は町の空洞化。多くの被災者たちは住み慣れた地元を離れて、今も仮設住宅などに暮らしている。真備町内にある仮設住宅には650人(271世帯)が入居している。さらに町外の民間アパートを県が借り上げるみなし仮設に暮らす人は4710人(1845世帯)。真備町から車で1時間の倉敷市にあるみなし仮設に暮らす藤田敏郎さん。「地元の人たちとの絆が切れたら、もう私はボケてしまへんかと思ってね」。しかし心配なのは水害です。本当に真備に戻って大丈夫なのか。「異常気象が異常ではない状況ですから、また被災したら困る。頭の中は混乱している」。住民の多くが町に戻ることをためらっている理由の一つは、川の堤防の工事が終わるのは4年先。倉敷市が住宅再建に向けた課題のアンケート調査の回答では大きい順から、堤防工事の進み具合、住宅の建て替え・修繕の資金不足、工事業者の不足、二重ローンになること、後継者がいない、となっている。水害への不安と住宅再建の資金が大きな課題。課題を少しでも解決する方法はないか住民の集まり。住民同士で助け合い避難できる体制を作ろうと、集会を主催したのは住民の松田美津枝さん。市役所職員や民生委員も参加。自分たちが暮らす地域にどれだけの人が戻っているか「いる人マップ」を作って、状況を把握。戻った人、再建中の人、戻らない人、一人では逃げられない高齢者などを地図にマークする。地域から逃げ遅れる人をなくすにはどうすればよいか、話し合いを続けることにする。真備町が抱えるさまざまな課題を住民の立場から解決しようとする人たち。「川辺復興プロジェクトあるく」は被災した住民の槇原聡美さんが代表。子育て世帯の住民たちに呼びかけて作ったボランティア団体。「リカバリーカフェ」で被災者たちの住宅再建への不安を解消する取り組み。フィナンシャルプランナー、司法書士などの専門家を招いて、住宅や教育などの資金計画についてアドバイスを受ける。二重ローンを組んだ人が多くいる。家計を工面しながらの育児。「真備に戻って真備で生活する後押しにしたい」と槇原さん。地域で高齢者や障がい者を支える取り組みもある。「お互いさまセンター」代表多田伸志さん。町に戻った人も町外のみなし仮設にいる人も、一人で悩まないように支援。ちらしを配り困りごとの電話相談、病院などへの送迎、日常生活のお手伝いなど、様々な支援。スタッフが仮設住宅を訪問し、病院への送り迎えのサービス。利用できるのは被災者した高齢者、障がい者、子育て中の親子など。多田さんたちはこれまで1,600件の相談を受け、必要な福祉サービスを紹介してきた。「まだ電話をかける元気も出ない人たちが大勢おられる。どうすれば声を上げてもらえるか工夫が必要」と多田さんは言う。
(13)集落の復興に向けた住民たちのさまざまな取り組み:「住民たちの活動で熊本地震から立ち上がる集落」(2017年)。熊本地震で最も大きな被害を受けたのは益城町東無田集落。ガレキは撤去され集落には空き地が広がっている。住民の多くは仮設住宅に移った。米農家の宮崎誠さんが今の田んぼの状態を案内すると、まだ地割れが残っている。水田の復旧工事は順番待ち。宮崎さんが再起をかけて作っている作物はニラ。地下水をくみ上げるポンプが壊れているため、水やりのため隣町まで水を汲みに出かける。車にタンクを積んで毎日6回往復する。震災直後田んぼを諦めニラ栽培を始めた。ニラを益城町の特産物にしたいと考えている。販売先を広げたいと熊本市内の料理店を訪ねる。餃子の専門店を経営する草野さん。震災後に草野さんはボランティアで東無田を訪れて、宮崎さんのニラを見て気に入った。ニラの消費は1日70束使うので、年間通して利用できれば良いと草野さん。東無田集落を元気にする去年からの取り組みの中心者は田崎真一さん。「東無田復興委員会」を結成した。取り組みの一つはスタディツアー。外から来た人たちに震災直後の状況などを話し、いざというときに何が大切か伝えている。ツアーには県内外の企業や自治体から参加の申し込みが相次いでいる。「私たちは地震に対して全く無防備だった。被災して大きなマイナスを背負った。私たちみたいな経験をしなくて済むように、防災に努めてもらう話もしている」と田崎さん。東無田集落の人が心を寄せてきた東無田八幡宮の改修費にスタディツアーで得た収入の一部を充てたい。集落の女性たちも新たな活動を始めている。20人ほどの女性が集まり、ダンスや手芸などをしている。グループの名は「サークル絆」。ポーチや手提げ袋を作っている。生地には倒壊した家から取り出した洋服や着物が使われる。「家の中にいたらイライラするし、ここが一番の楽しみです」と参加者。この会のリーダーは森永映子さん。この活動を女性たちの経済的な自立にも繋げたい。「被災者として甘んじてはいけない。支援してくれた方々に私たちの活動を示すのも恩返しだと思う。作ったものを販売したい」と森永さん。スタディツアーに来てくれた東京の大手航空会社の人たちへの販売に出かけることにした。去年の社員研修で東無田を訪ねたのをきっかけに、会社は支援を続けていた。会場に200人ほど集まった。熊本地震の体験を森永さんが話した。続いて作ったポーチや農産物の販売会。宮崎さんのニラも販売。用意したポーチやニラはすべて売り切れた。「熊本の応援はまだ続けないといけないと感じた」と航空会社の社員。
C. 文化を守る
変わる時代状況の中で「文化」はどうすれば守られるのでしょうか。事例(14)は、災害のために村を離れた元の住民が、消えかかっていた祭りの日に村に戻り、祭りを盛り上げる話です。事例(15)では、担い手の減少など社会状況の変化で消滅しそうな祭りでも、その祭りの担い手を変えることによって、守られてきた祭りの歴史を明らかにします。災害による社会変化でも同様でしょう。以下に動画事例の要点を述べますが、事例の詳しい内容はその後の●印の項目で紹介します。
(14)中越地震で大きな被害を受けた、旧山越村三ケ地区の住民は高台に集団移転して、地区の人口は半分になりその多くが高齢者です。五十嵐さんなど村を離れた人たちが支援して蘇った行事は夏の盆踊りです。盆踊りは三つの集落の合同の開催で実現しました。村から東京に出ていった人たちも、バスツアーを組んで参加し、祭りの存続に力を貸しました。去年は人口80人の村の祭りに250人が集まりました。故郷を思う気持ちが復興に繋がっています。
(15)民族芸能学会の縣田さんは福島の祭り研究の第一人者です。原発事故は福島の人が受け継いできた民俗芸能を根こそぎ奪いました。まだ人が住めない場所なのに復活を遂げた祭りがあります。復活の中心になったのは長年踊りの指導をしてきた佐々木さん。田植え踊りが復活したのは東京都江東区でした。離れ離れになっていた子供たちが、東京に避難していた佐々木さんの元に集まって踊りました。地元の子供がいなくなった時、どうすれば田植え踊りを守れるのか、佐々木さんは懸田さんに相談しました。時代と共に変わってきたから、今に受け継がれてきた田植え踊りの歴史を紹介して、懸田さんは祭りを大胆に変えることを勧めました。佐々木さんは地域の実情に祭りの形を合わせることで伝統を守ることにしました。
●「文化を守る」の事例動画の詳しい内容とリンク
(14)村を離れた元村民の故郷を思う気持ちが復興に繋がる:「遠くから故郷を支えるネットワーク」(2014年)。中越地震で大きな被害を受けた旧山越村三ケ地区。一部が水害によって水没し高台に集団移転した。地区の人口は半分になり、その多くが高齢者。村を離れた元村民の一人、五十嵐真さんは今も頻繁に故郷を訪ねる。「ここが玄関だった」自宅があった場所は跡形もない。しかし生まれ育った村との繋がりは五十嵐さんにとって特別なもの。村の人にとっても村を離れた人が度々訪れるのは大きな支え。「こっちへ来るとホッとする」と五十嵐さん。「そう言われると気持ちも良いし安心する」と村人。五十嵐さんなど村を離れた人たちが支援することでよみがえった行事がある。「ここが盆踊り会場です」と五十嵐さん。村が一番盛り上がる夏の盆踊り。以前から存続が危ぶまれていた。それは2年前、三つの集落の合同での開催という新しい形で蘇った。五十嵐さんは高齢者には難しい力仕事を買って出て、祭りの存続に力を尽くした。村から東京に5年前に出ていった人たちも、祭りの存続に力を貸しました。山古志出身者の三ケ校友会会長の川上清彦さんは、会員に呼びかけ30人ほどのバスツアーを組んで、みんなで盆踊りに参加した。かつて祭りの一部として行われていた民謡大会を12年ぶりに復活させた。去年は人口80人の村の祭りに250人が集まった。「また元の姿にしたい、という故郷を思う気持ちはみんな同じで、それが復興に繋がっている」と川上さん。
(15)地域の実情に祭りの形を合わせて伝統を守る:「原発事故で失われた民俗芸能を取り戻す」(2014年)。民族芸能学会福島調査団団長の縣田弘訓さんは福島の祭り研究の第一人者。県立博物館に努める傍ら、自前で揃えた映像機器で半世紀以上も福島の祭りを記録してきた。縣田さんは福島県内の祭りや芸能はほとんど全部見てきた。伝統を受け継ぐ人たちとの交流を大切にしてきた。3年前、福島第一原発の事故が起きると縣田さんはすぐに動き始めた。調査団を結成し、祭りを受け継いできた人たちの避難先を200か所以上も訪ねた。原発事故の後に何が起きたのか、どうすれば祭りを再開できるのか、徹底的に聞き取った。「復活してもらいたいっていう希望はあるけど、どこの保存会も今やれと言われるとお手上げだ」と住民。調査団の報告書「福島県無形民俗文化財被災調査」がこの春に纏まった。ここから福島の民俗芸能が置かれた危機的な詳細が初めて明らかになった。福島県は民俗芸能の宝庫だった。県内に伝わる祭りや民俗芸能の数は凡そ800、その内原発事故の大きな影響を受けた区域だけで235、その内これまでに再開できたのは33、故郷の地で再開できたのはわずか11。この再開できた数字は津波の影響を受けた宮城県、岩手県に比べると極端に少ない。福島が厳しい状況に置かれている理由は県外避難が多い、子供たちが避難でバラバラになっているから。原発事故は福島の人が先祖代々受け継いできた民俗芸能を根こそぎ奪った。まだ人が住むことができない場所なのに復活を遂げたものがある。例えば原発からわずか6kmの位置にある福島県有数の漁港として知られる浪江町請戸地区。400軒あった家はすべて津波で流され144人が流された。助かった住民はすべて故郷を離れ避難生活を送っている。この町の祭りがいち早く復活していた。300年前から受け継いできた半農半漁のこの町の鎮守のくさ野神社の安波祭り。小学校高学年の女の子が早乙女になる田植え踊りなどが浜辺で奉納されていた。賑やかだった浜辺は震災直後そのままに残されている。田植え踊りを踊った小学生は被ばくを避けるため、ここには近づかないよう指導されている。町は変わり果ててしまった。一体どうやって祭りは復活したのか。復活の中心となってきたのは長年踊りの指導に当たってきた佐々木繁子さん。田植え踊りが復活したのは請戸から遠く離れた場所の東京都江東区。震災の年の夏のこと。離れ離れになり寂しい思いをしていた子供たちが、東京に避難していた佐々木さんの元に集まった。一旦は断ち切られた関係がこの時だけは繋がった。その後、請戸の田植え踊りは全国各地に招待され、3年間で24回の公演を行った。田植え踊りを続けてきた佐々木さんは不安を抱えている。震災当時小学生だった踊り子たちは成長し、今では全国各地の中学や高校に進んでいる。徐々に踊りに参加できなくなる子供が増えている。「地元にいた時だって少子化になり、小学校の子供たちがいなくなって、人数が減ったりしたので難しい。震災で散らばってもっと難しくなってきた。請戸の人たちで田植え踊りを守るのは本当に難しくなってくる。請戸の血を引いた者にしか分からないことがあります」と佐々木さん。請戸生まれの子供がいなくなった時、どうすれば田植え踊りを守れるのか。佐々木さんが相談に訪れたのは福島で民俗芸能の調査を行ってきた懸田さんのところ。「請戸の小学生だけに頼っていてはこれから先やって行けないと思う」と佐々木さんの不安を聞いた懸田さん。そして何事も大胆に変えていくことを勧めた。「時代と共に変わっていくから今に受け継がれてくる。昔のままだったら絶対途絶えて無くなっています。意図的に変えるのは困るのだけど、自然と変わっていくのはしょうがない」と懸田さんは言う。実はこれまでも請戸の田植え踊りは、社会の変化の中で姿を変えてきた。1968年に懸田さんが撮影した田植え踊りの貴重な写真には、当時の踊り手は小学生ではなく、年頃の女性と白粉を塗った男性が入り乱れて踊っている。田植え踊りは男と女の社交の場だった。しかしこの写真が撮られた直後、踊り手が集まらなくなる時代がきた。きっかけは福島第一原発の1971年の運転開始。原発は数多くの働き口を生んだ。人々は豊かさを求め、田植え踊りが始まる農閑期になっても、忙しく働くようになった。踊り手不足に頭を悩ませた請戸の人たちは、1980年代の初めに地元の小学生に田植え踊りを教えた。地域の実情に祭りの形を合わせることで伝統を守ることにした。「発想を豊かにしてやっていかないと、原則だけでは通らない今の状況にあるから、柔軟に考えて欲しい。そうしなかったら無理です」と懸田さん。「踊り手は誰だっていい。踊れる人が踊って伝統を守れ」と懸田さんの提案。もう一つ佐々木さんが聞きたい疑問。求められるまま各地で公演を続けてきた田植え踊りは次第にイベント化し、本来の神聖さが損なわれつつあると感じていた。「何とか神社の前で踊れないか、そこが原点。本当は安波様の日に合わせて行きたい。祠が建っているのですから。お社の前で踊りたい」と佐々木さん。「安波様の神様は請戸に永久にいなきゃならないわけではない。日本の神様はほんと自由です。請戸の神社の御神体をわざわざ持って来なくても、祠を作って神様が依りつくもの、幣束とか鏡とか祠の中に祭って、神職が神降祝詞と言う神を降ろす祝詞を唱えるのです。ここにお呼びすればちゃんと天から飛んできて住み着いてくれるのです」と懸田さん。つまり請戸の人たちが数多く暮らす福島市の仮設住宅の近くに祭壇を作って、そこにくさ野神社の神を招き入れる。そこで田植え踊りを踊れば、安波祭り本来の意味を取り戻すことができる。「仮設の人も安波様にお参りできた、と心の拠りどころができるでしょう」と懸田さんは言う。