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まつりのあと:7_②

 女は一度父の遺影を見上げ、去った。あんな状態でも運転はできるのだから、相当図太い神経をしているのかもしれない。

そうじゃなきゃ
よそんちの父親を借りるなんてできないよね

「……罪深いよ、これは」

 私は、父の遺影を見上げた。何を言われたって笑っている。これからもずっと、誰が恨み言を言おうとも、変わらずに笑うのだ。何故、こんな写真を選んだんだろう。

これ、いつまで続くんだろ

 あの少年に真実を伝えるか否か、それは、私には決められない。私が女の代わりに話したところで、あの少年は信じないだろう。それどころか、芽生えなくても良かったはずの憎悪を芽生えさせてしまうかもしれない。少年が受けるであろう衝撃は想像できる。けれど、負った傷を癒す術を、あの女が持ち合わせているようには思えない。

 家を譲っても良いと言った時の、女の表情。ほんの一瞬だったけれど、確かに笑ったように見えた。消したくても消えない記憶というのは、これのことだ。何て不快な笑み。自分の息子と父が戯れている時、あの女は、あんな風に、してやったりと笑っていたのだろうか。息子や父に対して、罪悪感を抱かなかったのだろうか。相当クソったれな男と付き合っていたのだろう。妊婦を残して姿をくらます男なんて、クソったれのクズ以外の何者でもない。それがわかっているから、本当の父親の話はできないのだろう。

まだアイツのほうがマシか

 私に、ワインの味と知識を与えた男を思い出す。思い出したくもないのに。こんなことがなければ、思い出さなくて良かったかもしれないのに。

「全部アンタのせいだよ!」

 灰になった線香を掴んで位牌に投げつける。位牌は倒れもしないし、文句も言わない。ただ仏壇が汚れただけ。父は勿論、怒らない。遺影は、笑っている。

……馬鹿にしないで

 玄関を飛び出し道場へ。鍵を開け土足で上がり父の竹刀を掴む。構え方なんて知らない。振り下ろし方も知らない。足の運びも気合の入れ方も、私は何も知らない。

「何で、何で私だけ何にも知らないのよ! 何で……何でよ!」

 竹刀を振り上げ、ただ振り下ろす。父の防具に与えた一撃は私の手にも痛みを与えた。それでもまた竹刀を振り上げた。叩いて叩いて叩いて。手に痺れが走っても叩いて。

怒んないの?
大事な竹刀でしょ?
大事な防具でしょ?
いいの私が触って?
私が、ここにいていいの!?

「何か言えよ!」

 無茶苦茶に。ひたすら無茶苦茶に叩きまくる。竹刀が折れてしまえばいい。防具が割れてしまえばいい。全部壊れてしまえばいい。家も道場も全部。全部壊れろ。

 窓ガラスに竹刀を向ける。一枚二枚三枚。四枚目に竹刀をぶつける寸前、背中と腕に他者の体温が触れた。羽交い絞め。強い力。

「何やってんですか!」

 石原の声。そう判断しても制御が効かなかった。壊すんだ全部。思い出も、ここまでの人生も、全部壊してしまいたい。

「晴菜さん落ち着いて、落ち着きましょう! 危ないですから出ましょう! ね?」
「嫌だ放せ! 関係ないんだから、アンタは関係ないんだから!」
「あります、ありますよ! 俺、頼まれてます! 晴菜さんのことも家族のことも、みんなをよろしくって頼まれてます! だから……だから関係ないなんて、言わないで下さいよ」

 石原の声が揺れて、羽交い絞めにしていた力が緩む。明らかに自分よりもたくましい腕を振りほどき、私は四枚目のガラスに竹刀をぶつけた。

 頬に走る鋭い痛み。思わず竹刀を放り投げた。手は自然と頬へ。湿り気。涙ではなく、血の温もり。首に達したそれが、グレーのハイネックに滲む感覚。

早く、洗濯しないと

 我に返るとは、こういう事か。違う。ついさっきまでの自分も、我だ。そちらの自分が作った光景を眺める。


完全に八つ当たりだわ
……だっさ

 石原に声をかけず道場を出た。洗面所に向かい、鏡の前に立つ。頬には、ほぼ直線に傷が走っている。絆創膏で隠せる長さではない。

「ホント、だっさい……」

 まずは止血。ティッシュを数枚重ねてたたみ、傷を押さえる。

「晴菜さん!」

 洗面所に飛び込んできた石原は、目を赤くしていた。驚いた。どうしたんですか、と放ちそうになったけれど、別の問いにすり替えた。

「いつきたんですか?」
「いつ? そんなのどうでもいいです! 早く手当しないと」
「救急箱の場所わかります? って、わからないですよね。いいです自分で探します」
「わかります! 俺が持ってきますから、ここにいて下さい。じっとして、動かないで下さいよ!」
「はい」

 はっきりと返事をしたけれど、石原はそれを聞かずに洗面所を出て行った。それほど急いで治療するような傷でもないだろう。半ズボンを履いて転んだほうが、よっぽど派手な擦り傷を作れる。しかも、カッコ悪いという精神的なダメージのオマケつきだ。

まあこれも相当カッコ悪いけど

ティッシュを外し、傷口を見る。傷の状態を確かめる前に血が滲んだ。新しいティッシュを。血に染まったものはゴミ箱へ。真っ白な一枚も、すぐに赤に染まった。

 頬に鋭く刺さった痛みを思い出す。道場を荒らす私に、やめろ、と言ったのだろうか。父の代わりに、父が磨いていた窓ガラスが、私に制裁を加えたのだろうか。

そんなワケない
だったら、こんなので済むワケない

 失笑と同時に石原が戻る。顔を緩める私に、怪訝な表情を向けている。石原にしてみれば、笑える状況ではないのだろう。痛みをごまかすために笑っている、とでも言ったほうが親切だろうか。

「傷口にガラスが入っていないか見ますね。電気つけますよ」

 石原は迷わずに洗面所の照明を灯した。三つあるスイッチのうち、どれが洗面所のものであるのか把握している。それほど、この家に出入りした回数が多いという事。父の、お気に入りだったのだろうか。

 私はティッシュを外し、傷口を晒した。自分の手の温もりが去り、頬が涼しい。そこに石原の指先が触れて、ほんの僅か、顔を引いてしまった。

「痛かったですか?」
「いえ……大丈夫です」
「ちょっとだけ開きますよ。無理にこじ開けたりしませんから…………良かった、破片は残ってないみたいですね。少し血も止まってきましたし、水で洗ってから、絆創膏を」
「はい」

 言われるがまま、水で傷を洗い流す。冷水が染みて痛みが走ったけれど、自分で危険を冒したのだから仕方がない。

 タオルを一枚犠牲にし、しっかりと水気を拭き取る。新しく滲んだ血の量は少ない。私が声を出して命令しなくても、体は勝手に私を守る。不思議だ。特別自分を大切にしているつもりはないのに。

 真新しいガーゼを傷口に当て、その上に大きな絆創膏を。石原の手つきに未熟さはない。仕事中に怪我を負う作業員もいるのだろう。手早く、しかし丁寧に、私の傷を隠してくれた。

「簡易的な処置ですけど……手は大丈夫ですか?」

 言われて、両の手の平を見る。指の付け根の皮が少し剥けていたけれど、絆創膏を貼るほどでもない。手を洗い、しっかりと拭いて終了。

 鏡を覗き見る。売られている絆創膏を肌の色に近づけているのは、目立たないようにとの配慮なのだろう。けれど、どうしたって目立つ。顔に絆創膏を貼るなんて、生まれて初めてかもしれない。

「車で帰ってきて、良かったです」
「え?」
「マスクで隠せる位置じゃないし、これで新幹線とか、乗りにくいなって……ありがとうございます。すみませんでした、何だか、酷いところをお見せしてしまって」
「あ、いえ……これだけで済んで良かったです……ホント、びっくりました」
「私もです……お茶でも、飲みますか?」

 石原の返事を待たずに台所へ。ガスコンロに火を入れ、熱を感じて、自分の体が冷えていると自覚した。指先まで見事に冷えている。刹那の眩暈。血を流したせいだろうか。それとも、気が抜けたのだろうか。

 しっかりと足を踏ん張って、茶を淹れる。石原は、おやっさんに線香を、と茶の間に向かった。灰をぶつけたと言い損ねた。驚きの声は上がらなかったけれど、鈴の音が聞こえるまで間があった。

 湯呑を持って茶の間に行くと、位牌は綺麗になっていた。石原の手にはティッシュ。微かに残った灰を拭き取ろうとしている。

「私がやりますから」
「やれますか?」
「はい、もう大丈夫なんで……お茶、どうぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、お願いします」

 ティッシュを受け取り、灰を拭き取る。石原は兄の場所に座り、いただきます、と言って湯呑に手を伸ばした。茶をすする顔は、まだ強張っているように見える。

 私は、どんな顔をしているのだろう。ここには映すものがない。洗面所に戻って顔を確かめるのは面倒だ。

大丈夫、すぐに笑えるから

 いつだってそう。感情を爆発させた後のほうが、上手に笑える。自分への嘲笑も込めて。


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