
捨て犬男とノラ猫女:Oct.4
軽い昼食を済ませた後、園内を見て周る事になった。目的地は特に決めず、ゆっくりとした足取りで歩く。
何派か、という話題は意外と盛り上がった。おかげで賢太は、美弥子の好きなものをいくつか知る事ができた。
コーヒーより紅茶。和菓子より洋菓子。フローリングより畳。山よりも海。特に海については、美弥子は力強く語った。海から離れた場所で育ったから、潮の香りのする街は憧れなのだと。せっかくだから出身地は何処なのか聞けば良いのに。そう囁く自分もいるが、賢太は音にしなかった。ピンポイントで知る必要はない。美弥子は海が好き。それを知ったのだから、充分じゃないか。
焦るな
少しずつでいい
少しずつ
美弥子が何を考え、行動しているのか。ひとつひとつの行動の意味を理解するには、相手の考えを知らなければならない。それを知れば、美弥子が何故部屋に立ち寄り、自分を外に誘い、一緒に過ごしているのか、その答えが見つかるはず。
自分は臆病者だと賢太は自覚している。直接的な問いには、直接的な答えが返ってくることが多い。だから、美弥子にぶつけたい多くの【何故】を、言葉にできない。自分が放った問いのせいで美弥子の笑顔が曇るなんて、想像したくない。先に進みたいと望みつつ、現状維持を図っている。本当にどうしようもない臆病者だと、賢太は自分の背中を蹴り飛ばしたくなった。
いつの間にか、美弥子が一方的に話していてる状態になった。空には雲が増え、太陽は時折姿を隠す。景色の彩度が若干下がるたびに、美弥子は微かに空を見上げる。その仕草が、賢太の目にはどこか寂しげに映った。
池にかかった橋の上で、美弥子は急に足を速めた。橋の上から身を乗り出すようにして、池を覗き込む。
「スイレンの時期にもきたかったなあ……スイレンって気持ちよさそうだよね。空を見ながら、ぷかぷか浮いてて」
言いながら、美弥子は更に身を乗り出した。
「危ない!」
賢太の手は、言葉と同時に動いていた。美弥子の腕を掴み、後ろに引き戻す。二歩後退した美弥子の顔には、驚きの表情があった。賢太はすぐに、美弥子の細い腕を解放した。
「ごめん、痛かった?」
「ううん、大丈夫……こっちこそごめん。落ちるかと思った?」
「あ、うん……ちょっと、焦った」
そう零した賢太に、美弥子は笑って見せた。困ったような笑顔。何故そんな表情をするのだろう。賢太は花のないスイレンの群れに視線を飛ばす美弥子を、じっと見つめた。
大人の服を着た子ども。バスロータリーで美弥子を見つけた時の感覚が甦る。もともと華奢な体つきではあるが、オーバーオールは焼肉を食べに行った時よりもダブついて見えるし、デニムシャツから覗く腕も細くなったように思う。引き戻そうと掴んだ時、脂肪の感触をほとんど感じなかった。
「……あのさ…………」
「ん?」
「あ、いや……女の人に、こういう事聞くのアレなんだけど……痩せた?」
「やだ、バレた?」
困ったような笑顔の再来。これが示すのは、どういう感情なのだろう。
「夏バテの延長みたいな感じ。もうちょっと涼しくなれば食欲も湧くよ。って、さっきちゃんと食べてたじゃん。目の前で見たでしょ」
「あ、うん……でも、その、ストレスとかが原因だったら、その……話してくれて構わないから。俺、聞くからさ」
「ありがとう。今は平気。今日かなり話聞いてもらってるよ。女はね、ストレスに関係ないことだって、ぶわーっと話すだけでもストレス解消になる生き物なの。だから今日はめちゃくちゃデトックスさせてもらってる感じ」
「そう……あ、まだ、全然、色々言ってくれて構わないから」
「ありがとう。賢太君の話も聞けたし、なんか今日は得した感じかな」
言葉終わりにつけた笑顔は、いつもの美弥子のものだった。そう見えたのは、橋の上に日差しが射し込んだからかもしれないと賢太は思った。
他愛のない話をしながら、園内をほぼ一周して、門を出た。バス停にはもうバスのカタチがあって、駆け足でバスに向かった。バスの一番後ろ、五人掛けの長い座席に、二人並んで座る。密着はせず、賢太の手の平が収まる程度の隙間を開けて。
帰りのバスというのは、無言になりがちだ。遠足の時もそうだったと思い出しながら、賢太は右隣に座る美弥子に、僅かに視線を移した。
美弥子の視線は窓の外へ。両手は太ももの上。手の甲の骨が浮いて見える。手持ち花火大会の日、一緒のベランダで缶チューハイを飲んだ時、美弥子の手はどんなだっただろう。もっとなめらかな曲線ではなかったか。思い出せない。
――ちゃんと見てるはずなのにな……結局、イメージしか捉えてないのか?
美弥子は、どんな人間か。自分はしっかりと把握しているのだろうか。
明るい
良く笑う
行動的で衝動的
他には?
わからない
出会い方が非日常過ぎて、その後聞いた話も信じ難くて、何なんだこの女はと思っていたせいだろう。喋る、食事をする、電車に乗っているなどという当たり前の事を知るだけで、美弥子の多くを理解したつもりになっていた。何も知らない。自分は美弥子の、何も知らない。
「今日、ホントに楽しかった」
「え?」
右を見る。美弥子は、窓の外を見ている。
「また行こうね。一緒に」
「……うん」
美弥子は、窓辺に宿る光の中にいる。ほんの少し手を伸ばせば触れられるのに、そうしてはいけないような横顔。とても綺麗だと賢太は思った。同時に、焦燥感のようなものが胸に湧き上がる。美弥子が隣にいて嬉しいはずなのに、楽しいはずなのに、何故。
景色はすぐに街の姿となった。太陽は西にある。夜がくる。またひとりになる。美弥子は、どこに帰るのだろう。聞けない。聞かない。もう少し、このままで。