緋襷と無花果
色々なことが起きて、
色々な朝が来て、
色々な夕方がきた。
あっという間に、11月が来た。
11月1日は、亡き父と母方の祖母の誕生日であり、
毎年、ふと人生を振り返ってみる。
小さい時から、
周りで起きていることを目や耳、肌感覚で感じてしまい、
自分が苦しくなってしまうことがあった。
この頃、それを遮断する術を身につけたような気がする。
自分以外のことで、どうにもできない事に、
どれだけ気を遣ってきたことか。
気にかけても、如何ともし難いことがこの世には沢山あって、
それは、その人の問題で・・・
割り切っていいことが世の中にはある。
という、当たり前のことに気がついたのが最近である。
生身の人間の生感が、少しドライになったのか、というと
そうではなくて、
透明感を増して透き通って見えるようになったというのか、
放っておくことで正しい軌道に自ら戻る道筋が、
自分にも他人に対しても見えるようになった気がする。
枯れたような肌に、
燃えた藁の跡がある、緋襷。
他界した母が好んだ備前焼の皿を出すのは、冬に向かう季節。
情熱的に燃えた火の跡。
生きているように、
瑞々しい無花果の生感。
対照的に見えるものの中に、もしかしたら
私が知りたいことが
潜んでいる。
死があるから、生がある。
生があるから、死があることを。
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書くこと、描くことを続けていきたいと思います。