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なぜなら・・・
他界した父も祖父も、新聞記者をしていた。
記事を書いているときや、本を執筆している時には、静かにしているよう画用紙とクレヨンを渡されていた。
お話を作って絵本にして、次の日は、その続きを書いて。
そんな夏休みを過ごしていた。
幼稚園の頃、絵日記を書いてみるように言われて、絵日記帳をもらった。
短い文章なので、父の添削が入った。
「ここは、『なぜなら』という言葉で始める。」
と言われたが、小さい私には「なぜなら」が何なのかがわからなかった。
なぜなら・・・なんて使っている友達はいない。
意味を自分でうまく説明できないのだから、私は使うのは嫌だ!と言い張った。
頑固な子どもだった。
それから中学までの間、毎日日記をつけていたのだが、習慣になると、それは一日を振り返る楽しみにもなった。
エピソード記憶の訓練のように、一日の会話を全部思い出して書いていたからもしれない。
高校時代は、美大に行くために毎日絵を描いていて、日記に費やす時間がなくなった。
イメージを視覚化するという、別の頭の使い方をするようになると、しかし、それは自分の考えを言語化する作業がなくなったということでもあり、言語化しないことには頭の中で図式化もできない私の頭に、軽い混沌が生じた。
それから暫く経ち、人間の行動には何かしらの理由がいる、ということを説明するのに便利な言葉を思い出した。
「〇〇をしようと思う。なぜなら・・・。」
感覚で動いてきた私が社会人になると、「なんとなく」という言葉は通用しないことが身に染みた。
企業のパッケージデザイナーとして、「なんとなく」感じていることは間違ってはいない。
むしろ、なんとなくではなく、確かに感じていることの方が多かったけれど、言葉にして説明しなければ、伝わらない。
絵画のタイトルに「無題」というのがある。
「感じるままに」を「なぜなら」で説明する必要があるのかと言われれば、時と場合による。
例えば、デザインの中に意味のないものを入れるな、という原則から言うと、言語力が『思考力』のような気がしている。
どうしてかというと、という少し幼い言い方を「なぜなら」で説明する。
今の仕事で出会う方々の中には、気持ちを言葉で説明できない方も多い。
毎日、何件もの相談記録を打つ時、その方の表情や身体の動きを思い出す。
どのような経験をしたのか、なぜ、そのような行動をしたのか。
「なぜなら」と書く。
そして、その方の顔を思い出すとき、目の前にいた時には見えなかった背景に、思い至ることがある。
映画のフィルムのように反芻しながら、その人の生育歴や今の生活を記録する。
いくつもの人生を、いくつもの文章にさせていただいているつもりで、真摯に相談記録に向き合う。
ひとつひとつが小説のプロットのようだ。
いつか、書くのだろう。
「その時がきたら書くから。心配しないで。」
と笑ったのは、ヒプノセラピーに登場した私の前世だった。
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