野生のナマケモノにベタベタ触る(コスタリカ種蒔日記)
目の前に、いる。
わたしは息を呑んだ。
前方わずか数十センチ、手を伸ばせば難なく届く位置にぶら下がっているのは、コスタリカ の森の代表選手。
ナマケモノだ!
午前中ザーザーと降り続いた雨がようやく上がり、わたしたちはモルフォのオフィスの前のテーブルにパソコンを持ち出して、思い思いに作業を始めていた。
そこへ、一つのビッグニュースが舞い込んだ。
[ナマケモノがいるぞ!そこのフェンスに下りてきてる。あの高さなら多分触れるよ]
えっ?!わたしの心臓は跳ね上がった。高い木の梢にじーっとぶら下がり、一日の実に20時間を眠って過ごす、超省エネ主義者。あまりにも動かないので、体に苔が生えることもあるという。コスタリカ のジャングルに憧れる者なら誰しも一度は会いたいと願うそんな摩訶不思議生物が、こちらに来てたった10日で、わざわざ向こうから出向いてきてくれるなんて。しかも普通は遥か遠い木の上に見る存在なのに、オフィスと隣の森とを隔てるフェンス、簡単に手で触れる場所に下りてきてくれるとは。こんな幸運があるだろうか?
わたしたちは皆我先に森へと分け入った。安いサンダルをつっかけただけの足を、雨に濡れた下草がチクチクとくすぐる。こんなとき、[その靴で危なくない?]などと心配してくる人がいないことがうれしかった。履き替えている暇はない。この空前のチャンスを逃さないため、スポンジのように水を吸い込んだ地面を踏んで、ひたすら前進あるのみだ。
何か人生初のものに手を触れるとき、そこへたどり着く最後の数歩はいつも、限りなく遠く感じられる。サスペンスドラマでいよいよ犯人が明かされようとしているのを観ながら、[頼むからここでコマーシャルはやめてくれよ]と祈るときのような緊張がある。特に野生動物の場合、後一歩のところで逃げられてしまう経験を何度もしていたので、否が応でも鼓動が速まった。いくらナマケモノとはいえ、わたしたちが行くまで大人しく待っていてくれるものだろうか。姿を消すところまで行かなくても、手が届かない高さまで登ってしまったら終わりだ。[お願いだからそこにいてね・・・!]
息を詰めて手を伸ばし、その体が手に触れた瞬間、わたしは興奮のあまり森の地面にしゃがみ込んでしまった。こんなにも簡単に接近できたことが、にわかには信じられなかったのだ。
頭からお尻まで、70センチぐらいだろうか。尻尾はほとんど無く、すんなりと長い4本の脚で、背中を下にして金網にぶら下がっていた。毛は長く、雨に濡れてゴワゴワと固まっていた。ぬいぐるみのふわふわしたイメージとはだいぶ違う。さすが、野生動物だ。脚の先には、まるでお湯で戻す前の乾燥マカロニのような手触りの、太くて硬い鉤爪が3本並んで付いていた。
わたしが感激してベタベタ触るものだから、最初じっとしていたナマケモノもやがてたまりかねたように動き始めた。素早くとはいかないまでも、スルスルと滑らかに金網を登っていく。[怠け者]なんていう不名誉な名前をもらうにはあたらないスピードだ。ナマケモノには爪が2本の種類と3本の種類があり、今目の前にいる3本の方が比較的アクティブによく動くのだという話を後から聞いた。でもそんなことは関係なく、単に初めて人間に触られて、命を守ろうと全力を振り絞ったのかもしれない。
怖がらせてしまってごめんね。でも君の感触や息遣いは今もわたしの指先にはっきりと残っている。こんな経験、もう二度とできないかもしれない。だから、[ありがとう!]も言いたい。
モルフォのスタッフたちに聞いても、こんな近くまで野生のナマケモノが遊びにきたことは今まで一度もなかったらしい。コスタリカ に歓迎してもらっていると感じた瞬間だった。