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「〇〇好きに悪い人いない」を上位互換すると。

私は映画を観た後、自分の感想を言語化しないうちに他の人のレビューをみてしまう人である。

観終わって「ほう〜…」と思っているうちにいそいそと近場のカフェに入り、レビューを観ながらご飯を食べる人である。

これは単純に、自分の気持ちを上手く言語化できないからであり、自分の大体の気持ちが世間とどれくらいズレてるかを知るため。

レビュー、感想、考察、批評をいくつか見て、ずいぶん意見が真っ二つに割れる映画だということはわかった。もはやズレているとかの話ではない。もう何処にいてもよさそうだ。

私としては結構満足な作品。
「坂元脚本は面白い」フィルターがすでにかかっているからかもしれないけど…

↓ 以下ネタバレあり↓


作中で描かれる彼らは、いかにも坂元さんの描く登場人物といった印象を与える。繰り広げられる会話劇、その中の言い回しや例え方は独特ながら「確かに」と思わせる力を持っている。

私の興味の幅は狭いほうで、正直いって作中に出てくるたくさんの固有名詞はほとんどが知らないものだった。きのこ帝国は名前しか知らないし、恥ずかしながら麦くんや絹ちゃんの好きな作家さんたちは誰もピンと来なかった。知ってたら共感できたのかもしれない。

坂元さんの描く登場人物のもう一つの特徴は「社会からはみ出た人」であること。そのはみ出し方は作品によるけど、それは社会の歯車のように働くことやいわゆる常識と呼ばれることに疑問を持っているような人たち。

そんな人たちが世界には一定数いて、そんな人たちが坂元作品を好きなのだろうなぁと勝手に思っていたりする。

今回の話の麦くんと絹ちゃんもそんな関係なのかも。サブカル好きで、ちょっと理解されないところがあるようなところ。だから惹かれたんだろうけどそれは果たして「本当の愛」なのか?

「好きな人が自分の好きなものを好き」なら、それが麦くんと絹ちゃんのようにあまりに多かったら、誰だって運命と思うだろう。

物語の序盤はそんな彼らの幸せそうな関係がただ描かれるだけ。「2016」の文字が出てきたとき、まだそこかと思ったくらい。でもそれが好き。いかにも坂元さんだから。

麦くんが就職して働いていく中で、「社会からはみ出た人」から「社会で"普通"と呼ばれる人」になっていく過程、それに絹ちゃんがついていけない(疑問を感じる)のがもどかしい。

そうだよねぇ…はじめがあまりにもピッタリだったからズレていけばすぐにわかるし、それが広がっていく様子がもの悲しい。

ただ、『カルテット』も『スイッチ』も、彼らは「社会からはみ出た人」のままだった。この話は違う。4年という時間をかけて、変化していく人とそうじゃない人を描いている。そういう意味では絹ちゃんの方が坂元脚本の生き物、という感じ。 


一本のイヤホンを二人で使うか否か、社会にでて働くってなんなのか、趣味が合う人でファミレスに行ってそこから何が始まるのか。

わかりやすい対比が描かれるこれらのシーンの中で、それぞれ彼らの心境は全く違う。でもそれを「成長」と呼ぶのは間違ってるような気がするなぁ…むずかしい。


ジョナサンで別れ話をするとき、若い子たちを見て二人が涙するシーンは何を思って泣いたのだろう?
自分を若い子に重ね合わせて、「やり直せたら」って思ったのか、「あの子たちも私たちのようになるかも」と思ったのか、「どうやったらこんな結末にならずに済んだのだろう」なのか、はたなた別のなにか?


別れてから二人で過ごす三ヶ月はとても幸せそうに見えた。「三回会って告白しなかったらずっと友達」って気持ちで告白するなら、ずっと友達でもよかったのかもしれない。

結局、「自分の好きなものを好きでいてくれる人」が好きだったんじゃないだろうか。いわば、「〇〇好きな人に悪い人いない」の超上位互換。

二人はお互い以上に趣味の合う人なんてきっといないだろうから。それでも二人は付き合って、分別れて、今は友だちとして付き合ったりせずに別の世界を歩んでいる。そしてそれぞれに新しい彼女/彼氏がいて。

2020年のあの一瞬の再会。
二人は数年前に出会っていて、ジョナサンに行って、曲を再生するときにイヤホンを分け合ったから、あのカフェで立ち上がった。

お互いに気付いていながら、話すこともなく振り返ることもなく前を向いて手だけを振って。

二人の中の楽しすぎた、綺麗すぎた思い出は花束として綺麗にまとめて心の奥底にしまってあるのだろう。きっとそれは新しい花が足されることも水を替えることもない、ドライフラワー。



……まあ、共感した/してない議論には参加できません。私の初恋、まだですしね。

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