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ボンネット 最終話

白い雨はとつぜんやんだ。
そのあたたかい風が吹いた朝、どこからともなく黒い羊の群れがやってきた。
薄く靄がかった牧草地を、もくもくの毛を踊らせて駆け巡ってくる。
それは、大量の羊毛の発注に怒った、遠くの村から来た羊たちだった。
群れの中の一頭の羊の背中の上で、ひつじの赤ん坊はすやすや眠っていた。

ひつじさんは、小高い丘の上からその光景を眺めていた。
それは、まさにひつじさんが夢で見た黒い羊だった。
「黒い羊って本当にいたんだわ」
ひつじさんは手をぎゅっと握る。
「黒い羊の中にいた白い赤ちゃん。なんだかとってもひかって見えた」
ひつじさんは実際に目の当たりにしたことで、自分の理想がなんだか分かったような気がした。
色は、関係なかったんだ。
「早くほつれの直ったボンネットに会いたいわ」

実際はオオカミが赤ん坊を連れ去ったわけではなく、つかまったのはヤギだった。
ひつじの赤ん坊誘拐容疑で逮捕されたヤギ容疑者は、昨今うまれてくるヤギの赤ん坊の名前に不満を持っていたらしかった。
ヤギ乳は、このところ力を入れているヨーグルト生産に使われることが増え、それに伴いうまれてくるヤギの赤ん坊にもヨーグルトに関する名前(レーベンやマツオーニなど)がつけられることが多くなった。
しかし、長らく村のヤギ乳の加工食品と言えばチーズだった。チーズに愛着を持っていたヤギ容疑者は、どうしてもヨーグルトに関する名前が増えてきたことが許せなかった。名前のついていないひつじの赤ん坊を連れ去り、チーズに関する名前(候補としてはシェーブル、フェタなどが挙がっていた)をつけヤギとして育てようと思ったと供述している。

警察によると、黒い羊たちによって救い出されたひつじの赤ん坊に目立った外傷はなく、健康状態は極めて良好だったという。

ひつじの赤ん坊は、久しぶりに病院のふかふかの布団に寝かされるとすぐに熟睡した。
次の日の朝、ボーダー·コリーさんが薔薇屋さんから届けられた薔薇の花束をベッド脇に飾ると、それを見てにこりとほほえんだ。

ひつじさんは公園のブランコの横で、久しぶりの青い空を見上げていた。
羊の毛玉のような雲が、ぷかぷかとゆっくり流れていく。
しばらくすると、待ち合わせをしていたボーダー·コリーさんが小走りでこちらに向かってくるのが見える。
「ひつじさん、お待たせしました」
ボーダー·コリーさんはほつれを直した黒いボンネットをひつじさんに手渡す。
ひつじさんの心はふわっと、一瞬跳ねるのを感じた。
ボンネットのまわりには、くるくるの黒い羊の毛玉が新しくほどこされていた。
それはひつじさんにとって「理想のボンネット」だった。
ひつじさんは嬉しくなる。
「とてもすてきだわ。ありがとう。理想のお洋服は、わたしたちの心まで変えてくれるのね」
さっそく頭にかぶり、顎の下で紐をきゅっと結ぶ。
そして分かった。
「この黒いボンネットはわたしが『黒い羊』である証だわ」

どきどきしてきた。世界が回っていくような感じ。
ボーダー·コリーさんは青い空を見上げる。
「いろんなボンネットをつくっていて気づいたんだ。手先を使って何かをつくるのが好きだって」
そしてほほえむ。
「誰かの顔を思い浮かべて何かをひたむきにすることは、看護師もボンネットづくりもおんなじだった。ボンネットをつくりたい。看護師をやりながらでもいい。やりたいこと、やっと見つけられたよ」
ひつじさんは黒い羊の毛玉を指でころころ動かしていた。
「くるくるだね」
ふたりは笑いあいながら両手をつないでくるくる回りはじめた。

そこをたまたまシープドッグさんが通りかかる。
「あらあらふたりして、どうしたの」
公園の中に入っていくシープドッグさん。
「シープドッグさんも入ろうよ!」
「えぇー。べつにいいけど…」
半分恥ずかしがりながら、シープドッグさんもふたりと手を繋ぐ。

輪になってくるくる、ずっとくるくるするさんにん。
しばらくして目が回って、しりもちをつく。
目を合わせて笑いあう。公園中の鳩がびっくりして飛びたつ。
しばらく回り続けていた風景は、だんだん速度を落としていく。ゆっくり、ゆっくり。じょじょに、じょじょに。また世界が戻っていく。
「とつぜん、今見えている風景からはずれて、ゆっくり進みたくなる時があるでしょ」
シープドッグさんは、ひつじさんとボーダー·コリーさんの晴れやかな顔を見て嬉しくなったようだった。
「それよ」

しばらくしりもちをついた状態で笑っていたさんにんは、立ち上がる。
「いくつになってもぼくたちここで、遊んでいようよ」


爽やかな秋晴れが、ずっと続いていた。
薔薇屋さんはスタジオにいた。講師を前に、同じ役者の卵たちとレッスンを行う。
発声をしたり、台本を使って演習をおこなったりもする。
稽古に熱中していると、あっという間に休み時間になる。
スタジオの隅に座り、薔薇屋さんはお弁当箱を取り出す。
箱を開けると、色とりどりのサラダ。白いごはんの真ん中には薔薇の実がのせてあった。薔薇屋さんの父がつくったお弁当だった。

薔薇屋さんは涙が出そうになるのをぐっとこらえる。
せっかくここに来れたのだから、しっかり頑張んなきゃ。
薔薇屋さんにはもう、迷いというものはどこにもなかった。


ボーダー·コリーさんはかぎ針と糸を持って、机に向かっていた。
新しいボンネットを縫い上げている最中だった。
ボーダー·コリーさんは看護師をやめてはいなかった。今でも仕事に励んでいる。

出勤日、ボーダー·コリーさんは紙袋を持ってひつじの赤ん坊の部屋へ向かう。
引き戸を開けると、ひつじの赤ん坊はすやすや眠っていた。
「今日はプレゼントがあるんだよ」
紙袋の中身を取り出す。
白地に薔薇の刺繍がほどこされたボンネット。
ボーダー·コリーさんは赤ん坊が起きないように、ゆっくりボンネットをかぶせていく。
ひつじの赤ん坊の頭をくるんだボンネットは、風をはらんだように優しく膨らむ。
「おめでとう。うまれてきてくれてありがとう」
病院の窓の外には、秋薔薇が植えてあった。


ひつじさんはスーパーからの帰り路を歩いていた。
やっぱりとぼとぼ歩く。アキアカネがゆらゆら飛んでいく。
でもひつじさんの目にはぜんぶ、ひかって見えた。
わたしは、
ひつじさんはひとりごちる。
黒い羊がひかって見える時点で、わたしは黒い羊だった。
だからきっと、黒いボンネットが手放せないのだろう。
紙袋からりんごを取り出す。やっぱりそれもひかって見える。
ときめき、理想のお洋服にはこころも変えてくれる力がある。黒いボンネットは黒い羊である証だった。
ひつじさんの中では、あたらしい何かがはじまりそうだった。
いつか、ボンネットの力を借りなくても黒い羊になれるかもしれない。
ボーダー·コリーさんがほどこしてくれた黒いくるくるの毛玉に、手を添える。
秋の夕陽が、そこに優しい影をつくる。
周りから見たら、白い羊が黒いボンネットをつけているだけに見えるだろう。
周りからみたらなんでもない。変化はない。でもこうやってひとつ、ひとつ。見える世界は変わっていくのだろう。
素直になれて、よかった。
これからも続くんだろうな。ひとつ、ひとつ。

ひつじさんはボンネットの紐をほどく。
そしてまた風に飛ばされないように、顎の下できゅっと結んだ。

(おわり)


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