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孤独を飼い慣らすこと。

例えば独身でいる人生を選んだとして
どうして何も関係ない人は
勝手にその人生をさみしいだの口出すのだろう。
誰ともしゃべらない日々はさみしい?
老後の独居はかわいそう?
だったら誰とか暮らし日々忙しくしてるあなたは
今充分に満ち足りて幸せだと1人で胸をはれるの?
恋人がいてもいなくてもジタバタして
結婚してもしなくても喚いて
子供がしてもいなくてももがいてるのは
一体なんなんだろう。

私が寂しく思うのは1人時間じゃなくて
せっかく誰かと一緒にいるのに
同じ言語なのに言葉が通じない瞬間
一緒にいるのに、さみしい。
そこには思いやりとか配慮とか想像力がなくなってしまい雑に扱われ、ただ一緒にいるカタチだけになってしまっている片鱗。
想いが伝わってないのだ。

それはストレスでしなかなくなって
何も生まないかなしい時間になるので
おさらばしようと思うのです。
もちろん最善を尽くしてからだけど。

1人でも生きていけそう

ってよく言われるけどそれは正解で
日々の暮らしをこなし成功体験が積み重なり
ストレスをもらい与えるぐらいなら
自分を大切に出来る一人暮らしは最適解だと思う。
それでも誰かと暮らす時間は尊い。
物理的に一緒にいなくても、一緒にいるを感じる瞬間はたくさんあるのだ。
心細いを寂しくとごちゃ混ぜにしたり
色んな自分をまさに公私混同したり
勝手に自分を可哀想な自分にしちゃうのは
よくあるミステイク。
自分の生き方と居場所をちゃんと構えたら
穏やかに暮らせるのだ。
今まで私がもらったギフトのような人生の糧は
3回あったプロポーズでもなく、、、
意外とささやかだったりする。

コンプレックスだった
何もない自分に
『この顔があるじゃない!』
と真顔で言ってくれた親友や

いつも美しい人々と仕事をして
たくさんのものをみている巨匠が
思いがけずこぼした
『きれいな顔だな』
だったり

お互いろくろく英語もよちよちだったのに
スペイン人の彼が伝えてくれた
『歌うように話す喋り方が好きだ』
とか

色んな意味で死にかけてた私に
大好きな友人がちゃんと
伝えてくれた
『Lucyが死んだら私とムスメは本当に本当にすっごい悲しむから!!!』
これは今でも泣けてくるし

香港でホームシックになり
こっそり帰国して居候させてくれ
心配する幼なじみに対して
近所の人妻が言ってた
『Lucyは変わったかもだけど
 これからの方が長いじゃん
 大丈夫でしょ』
というのは時間薬の処方箋だし

ママ、ありがとう
と言う子供達の言葉はそれだけで
救われる。

絶賛ジェットコースターライフだけど
最前線に渦中にいた時に頂いた
『Lucyさんは本当に苦労されてたんですね』
という言葉は戦場経験者であろう名前も知らない人からの労いだったけど振り返ると勲章だった。
たくさん心配をかけるような生き方をしちゃったけどそれは対岸からみると苦労なのかと驚いたのである。だからこそ、私も名前も知らない誰かにちょっとした労いの言葉をかけれるようになった。

20代の頃はとにかく摩天楼の中で人にまみれていたしパーティーもイベントも大好きだった。一日中服を着替えて好きな靴で出かけピアスを選ぶのが楽しかった。そのおかげでたくさんの人に出会えた。
でも、自宅の鍵を開けるのは1人。
party is over。
その緩急と加齢と混じって飽きて疲れて
いつのまにか
誰にも会わない場所へ
とフィールドが変わっていった。
40過ぎてコロナ禍も相まって街歩き散歩から
山歩きをするようになった。
五感が研ぎ澄まされ自然の中にいると
完全な1人になる。
新宿のカフェの1人の時間なんかよりずっと
完璧な1人になれるのだ。
いかに今までいた場所がコンフォートでぬるま湯だったかを感じて不自然なほど人工的な自分自身に気付ける。そして色んなモノを削ぎ落とす。

毎日同じ道を歩いても
毎日同じじゃない

そんな当たり前の事に気付ける。
それはきっと自然からのギフトだと思う。
もちろんちゃんと自然に敬意を持って
感謝しつつお邪魔した人だけがお裾分け♡

詫びも寂びも
まだまだ答えが出ないので
ちょっとずつ
自分の孤独を飼い慣らしていく。
あと80年ぐらいかかりそうだ。

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