地球の断片を愛し、ロストテクノロジーを保存する人ー製硯師 青栁貴史 氏
こんにちは。
石が頭にこびり付いて硯に辿り着き、「野筆セット」を購入しました。
書道未経験者なので知らないことばかりなのは当たり前なのですが…このギアを使うにあたって、知識とは違う「何か」が足りなくて靄がかかってるような感覚がありました。
そんな時、青栁さんから届いた言葉。
「サーフボードの上で波に揺られながら海で書くのも気持ちいいものでした。(野筆の)使用推奨環境は地球全域かと思います!」
スーッと豊かな感性が伝わってきました。ああ、この方から「石の話」を伺いたい。
早速。
創業は昭和5年。浅草で続く書道専門店「宝研堂」の4代目、 硯の製造から修理まで請け負う製硯師(せいけんし)である青栁貴史さん。
こじんまりとした2階の工房は、暖かな静謐さを湛えた聖域でした。
野遊びの際、沢の水で墨を磨り、相手の顔を思い浮かべながら手紙を書くという青栁さん。自然の中でのゆったりとした時間を、ご自身にじんわりと染み込ませるのだという。
「野筆セット」は現代の矢立(やたて)。
矢立とは、筆と墨を入れる壺が一体化した昔の携帯用筆記用具なんですって。初めて知ったわ。
毛筆というと私たちは姿勢を正して上手に書かなきゃ、と構えてしまう。それは自国の文化を理解し尊敬があるからこそで、素晴らしいこと。
でも、もっとラフに毛筆を、心が解(ほど)ける時間を楽しんで。そして「自分の字を愛して」と。
自分の字を愛するとは「肯定だけの世界」だと青栁さん。
誰かと比較することによって生まれる上手い下手。ヘタクソでも変でも自分が好きならそれでいいのよね。
製硯師。日本でただひとりこの肩書きを持つ人。他に大勢いる硯製作者と何が違うのか。
まず、全ての工程に携わる。それは石に対して全責任を負うこと。
つくりたい硯のイメージを抱きながら山に入る。
これはとても大切なことだと思う。ゴールがクリアになっていると道筋は自然にみえてくるから。
石の産地に赴き、石の産声を聞くことで石を理解する。
そうすると、カットする機械の回転数や刃の種類など、石への最適解が解るという。
石の前に出ない。
地球が1億5千万年以上の時間をかけてつくりだした造形をいただく。自然の美しい景色を濁らせない。
「自然を不快に思う人はいないですよね。でもそこに作為が加えられると違う感情が出てきます。」
石の持つ美しさを最大限に生かし、石の前に出るような作家性を残さない。だから青栁さんは自作の硯に銘を入れない。ここに良し悪しの判断は必要なく、ただただこれが青栁さんの仕事のやり方。
古代中国では硯は皇帝に献上される至高の道具であったという。しかし、そんな名硯には作り手の名は刻まれていない。刻まれているのは持ち主の名。
素晴らしい仕事をした職人は「無名の名工」、黒子なんだと。
ああ、なんて清々しい生き方。
自分の仕事、やり遂げたことに満足する。結果生まれた物に執着せず、その残像が余韻が自分の中に残るだけ、それだけ。なんて豊かなんでしょう。
そして、これから何百年も残る硯に仕上げるには、壊れやすい箇所は技術で強くする、即ち石の「生存能力」を高めてあげる。
使い手の第一関節の長さを知って硯をつくるという青栁さん。
「使い易さは破損しないんですよね。」
ご高齢の書家からの依頼で製作中の硯を手に取りながら、そう教えてくださいました。「重い硯を持ち上げるのに、この部分に凹みがあると楽なんですよ。」優しいオートクチュール。
正式な調印には毛筆が使われている。だから硯で磨る墨で書かれるものは残るという。
「この前、2千年前の石器をいただいたんですよ。石は技術を記憶を保存していますね。私が作った硯を後世の人が見て、こんな技術があったのかーと想像するのは楽しいものです。」
毛筆は残るのね、生存能力が高いのね。
青栁さんが製作された硯のリーフレット。帰りの電車の中で見てこの一文に惹きつけられた。
「夜の田畑に月を導いた」
泣きたくなるような情景が浮かんだ。ぼんやりと輝く月夜の田んぼに、祖父母(のどちらか)と手を繋いだ幼い子のシルエット。
「おばあちゃんと散歩した田んぼの情景なんですよ。」
豊かな情緒が作品から溢れてる。
お祖父様の死をうけ、大学を中退し硯の世界に入ることを決意したという青栁さん。その覚悟に至るまでに、どんな想いが飛来したのか。
「祖父の生き方が好きだったんですよ。」
スーッと丹田まで貫く言葉でした。
自分をあたためる、と青栁さんは表現されました。配慮は必要だけど、自分に遠慮なく。
自分で自分を満たして初めて、溢れてくるものがある。その溢れたものが周りを幸せにする。ただ在るだけ。
古代中国の硯職人のように。
採石から使い手に手渡すまで〜全ての工程に携わり、無名の名工の思想を受け継ぐ「製硯師」。
そこには豊かで幸せな生き方が在りました。
さて、旅文具である「野筆」を持って自分の字を愛しに出かけるか。