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本州最南端の町で奇岩と龍に会い、トルコに馳せる / 串本町・和歌山③
こんにちは。
今日はまず「橋杭岩(はしぐいいわ)」へ向かいます。
橋杭岩
海岸から紀伊大島に向かって約850mに渡り大小40余りの奇岩が林立している橋杭岩。1400万年以上前に地下から上昇したマグマによるものです。
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この並び方が橋の杭に似ていることからこの名が付いたそうです。
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その昔、弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭をして、一夜にして立てたという伝説も伝わっています。
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出来るだけ近くで岩柱たちに会いたかったので、潮が引いている間にズンズン歩く。
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グーニーズのテーマソングをフンフン口ずさみながら、
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列の中間にある弁天島から眺める。巨石に奇岩、ずっと見ていられるわーと油断してたら潮が満ちてきて、石と石との距離が広がってる…ドボンと膝まで海水に浸かってしまった。飛べると思ったのになー。スペアの靴持って来てよかった。
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今度はちゃんと潮位表を見て来よう。
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錦江山 無量寺「応挙芦雪館」
龍と虎に会いに無量寺へ。
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もともとは串本町の袋という地区にあった無量寺は、1707年10月の津波のために流失。1786年、愚海和尚(ぐかいおしょう)により現在の位置に再建されました。
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そして和尚と親交のあった円山応挙、その弟子の長沢芦雪の障壁画が方丈の各間を飾ることになります。
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このお寺にあるのが日本一小さい美術館「応挙芦雪館」。長沢芦雪が描いた『龍図』と『虎図』が収蔵庫に収められています。
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写真撮影は禁止。そして荒天時は文化財保護のため、収蔵庫への入館はできません。
お天気で良かった。龍と虎に会えました。
相対した時に感じる気迫、今にも動きそうな気配に引き摺り込まれ、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる感覚を覚えました。
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トルコ記念館
紀伊大島にあるトルコ記念館へ。イラン・イラク戦争の時、トルコと日本の結びつきを知り、訪れたかった所。
明治23年(1890年)6月、トルコ皇帝特派使節として来日したオスマン・パシャ以下650余名の将兵を乗せた巡洋艦「エルトゥールル号」が、修好の使命を果たして帰国の途中、熊野灘で暴雨風に遭い、ここ串本の岩礁で難破しました。
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この事故によりオスマン・パシャ特派大使海軍将校以下580余名が遭難しましたが、地元住民の献身的な救難活動により奇跡的に69名の命が救われました。こうしてトルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなります。
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日本側は、台風が発生する9月の航海は危険だと出航を見合わせることを勧めましたが、エルトゥールル号は先を急ぐように出発します。これは当時、船内でコレラ患者が出始めていたことが影響したとも言われています。
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当時の大島村民は全村を挙げて生存者の救助介護、殉職者の遺体の捜索引き上げにあたり、各戸に蓄えられた食料、衣料の一切が生存者のために提供されました。
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昭和60年、イラン・イラク戦争中、イラクのサダム・フセイン大統領は「今から48時間以降にイラン上空を飛ぶ飛行機は全て撃墜する」と発表。各国から自国民保護の救出機がイランへ飛びましたが、日本政府の対応が遅れ、在イランの日本人社会はパニックに陥りました。
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タイムリミットまで数時間。そこへトルコ政府の救援機が2機飛んできて、逃げ遅れた日本人215名全員を乗せてテヘラン空港を脱出したのです。
この時多くの日本人は、どうしてトルコが日本人を助けてくれたのか分かりませんでした。
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後に、ヤマン・バシュクット駐日大使は語っています。
「特別機を派遣した理由のひとつがトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の海難事件です。」
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イスタンブールで感じた親日感情はここからだったんですね。
ぼーっとしていると、トルコ語が日本語に聞こえてくることがありました。なんだか不思議な心地良さでした。
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ターキッシュ・エアラインズは、この救出の際に使用されたDC-10型機のデザインを復刻した機体を「KUSHIMOTO号」と命名し、2015年11月より就航を開始しました。
日米修好記念館
ペリーの黒船来航より62年も前の1791年、レイディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカ商船が紀伊大島に上陸。これが公文書に記録された初めての日米間の接触であるとされています。
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ペリーの浦賀入港がその始まりとされている日米修好の歴史。しかしその62年も前に、米国商船がラッコの毛皮を交易しようと寄港したんですね。まあ当時の住民は毛皮の使用方法を知らなかったので商売にならなかったそうですが。
エライさんが来てサインを交わし合うことが接触始め、じゃないのよね。
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「日本人が初めて見た星条旗、日本人が描いたレイディ・ワシントン」
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2015年、レイディ・ワシントン号の船長の伝記を著した歴史家スコット・リドレーがグレイス号の航海日誌を発見します。そこには日本人とアメリカ人の初めての交流の様子が簡潔に、しかも生き生きと描写されていました。
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日本人の警戒心を和らげるために、中国人船員に頼んで中国語の手紙を書き渡したといいます。
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西洋諸国は、何度も日本との接触を試みたが、頑なに拒み続けられた。歴史資料で確認できる限り、日本の港で、囚われの身になることなく10日間にわたって滞在し、地元の人々と友情を育んだ船乗りは存在しない。
海金剛
日米修好記念館から遊歩道を歩いていくと海面から突き出す巨岩。ピラミッドの迫力!
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洞窟が気になる。
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人と人。個人でも大きな国というレベルになっても相手に対する意識は変わらない。自分も相手も嬉しくなる付き合い方。
本州の南の小さな町の人々から大きな優しさをいただきました。
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続く