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たった一瞬で愛情に傾く深い友情「マティアス&マキシム」

前から気になっていた映画「マティアス&マキシム」を観た。今作の映画は若くしてその才能を高く評価されているグザヴィエ・ドランが監督・脚本・主演まで務めた作品。監督が「君の名前で僕を呼んで」を観て衝撃を受けたのちに作ったとのこと。

幼馴染のマティアスとマキシム。ある日、映画監督志望の友人の妹から、自身の映画に出演してと依頼される。賭けに負ける形で仕方なく出演するマティアスだが、要望されたシーンは「マキシムとのディープキス」だった。
その日から、キスをしたことと、マキシムのことが頭から離れなくなるマティアス。一方、マキシムもマティアスへの想いをコントロールできなくなっていく。マキシムはオーストラリアへ出発予定で、二週間もすればいなくなる。そのことがより2人の関係を追い詰めていく。

※ここから先やや内容に触れている箇所もあるので、まっさら気持ちでこれから観たいという方は閲覧に注意してください。

正反対の幼馴染の2人

マティアスは仕事でも成功を収め出世コースに乗っている。プライベートでは恋人と結婚の約束もしていて、順調満帆な生活を送っている。友達からバカにされるほど「正しいこと」にこだわり、人の言い間違いは指摘せざるを得ず「言葉警察」などと揶揄される始末。

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一方マキシムは、一人暮らしをしている母親は精神的に安定せず、部屋は荒れ放題、タバコと酒が手放せず心配の種は尽きない。後見人でもあるマキシムはたびたび顔を出すけれど感謝どころか暴言を吐いて物を投げられるなど散々な扱いを受ける。母親は快活で明るい弟の方を可愛がり、顔にアザがあり、冴えない生活をしている自分のことなどどうでもいいのではと思っている。そんな暮らしから逃げたくて留学という道を選択するのだろう、冒頭タバコをくゆらせる車窓越しに見えた、看板広告の創られた幸せな家族写真を鼻で笑い、白けた目を向ける。そんな荒んだ心に蝕まれている時に、マティアスとキスをすることになった。

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おそらく、マキシムは自分の気持ちを隠してきたのだと思う。高校の時に一度だけキスしたことがあるという2人だったが、マティアスは忘れていると言った。その真偽はわからないけれど、明らかにフェイクのキスで蓋をした気持ちが揺らいできて、それはマティアスにも伝わっていく。

気持ちの揺れとリンクする風景

多くを語らない余白の多い本作であるが、気持ちと風景・事象がリンクしている場面がいくつか見られた。

マティアスが何も知らずに引き受けた映画出演が、マキシムとのキスシーンだと分かってから一旦引っ込んだ部屋で、呆然とした気分で腰掛けたベッドが予想外にふわふわと波打つ。水面のように揺れるウォーターベッドは、そのまま彼の気持ちを表しているように漂い続ける。

そしてキスシーンを撮り終わったあと、カメラは一旦庭を映し、そこには強風に煽られて揺れる2台のブランコがある。それは2人の気持ちの昂りと戸惑いを絶妙に表現している。

また後半、友達とのゲームに興じる最中、ふっといなくなったマキシムを探しにマティアスが家をうろついているとき、頭上の照明が突然瞬き点滅し始める。つけたり、消したり、照らし出されるマティアスの顔が不安定に揺れ、その後再び明るみに出される時、彼の中の何かが少し変わったのかもしれない。

2人の揺れ動く気持ちの象徴でもあったブランコだが、キスシーンを提案した妹が作った前衛的な映像(題名は辺獄。原罪のうちにいくところだそう)の中にも登場し、誰かが妹に聞くのだ。「このブランコはノンバイナリー?」と。思えばこの妹は現代っ子でもあるし、セクシャリティの偏見のない世代。最初から男女二元論にとらわれない映画のコンセプトを提示していたが、その象徴にもなっている。

異性愛が当たり前の世界観

この物語の中には、社会的に多数派と思われる男性の代表、いわゆる異性愛者のステレオタイプ的な人物が登場する。若くして弁護士となり、背も高いイケメンで、いわゆる「成功者」であるケヴィン。

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仕事の上で、マティアスがお世話する係として彼と数日関わることになるのだが、ケヴィンは女性に対する偏見を堂々と口にし、いつでも女性を口説きたいようなハンターのスタイルを貫いている。そうかと思えば、父親の結婚指輪がずっと憧れであったと言い、自分は婚約中であると自慢げに語る。男の幸せはトロフィーワイフを獲得し、女を養うのに十分な収入を得て、自分は適当に遊んで暮らす、そう信じているような振る舞いをする。

自身を異性愛者であると認識し、仕事でもエリート街道を歩いているマティアスは自分の中に生まれてくる違和感と戦いながら、自分がいるのがケヴィン側でないことも同時に思い知らされる。欲望剥き出しの世界に身を晒しながら、もうすぐ離れ離れになってしまうマキシムへの複雑な思いに苦しむ。

この対比が見事で、不快感と共にこちらにもマティアスが抱えている違和感を感じさせてくる。

2人はどうしていくのか

ラストまで見たとしても、いわゆる恋愛ドラマと言われるような分かりやすいハッピーエンド、あるいは期待を持たせる別れ、などの結末は用意されていない。

もしかして「え、もう終わりなの?」と思う観客もいるだろうと思う。

そのくらい呆気ないラストではあるのだけれど、それが余計に友情と愛情の間で揺れた2人に相応しいのだと感じた。

よく思うのだけれど、もともと異性愛者で恋人もいたような人が、ある日同性に惹かれこれまでのセクシャリティとは違う関係性に導かれたとする。そこに様々なドラマがあるのだろうと思うけれど、もし時を経てその2人が別れてしまったとしたらどうだろう。よく言われる「性別がどうのではなく、その人だからこそ惹かれた」という言葉が本当に存在するとしたら、次の恋人が同性か異性かはわからないと思う。もしかしてあっさりと異性同士で結婚するという人もいるかもしれない。

特に異性愛者は特段自分のセクシャリティに疑問や不安を持たずに生きていることが多いように思う。改めて考える必要がないからだ。確信のないまま、社会的に多数派である異性を好み、異性から好まれ、恋人となり関係を持つことに何の疑問も持たない。

今回の場合もはっきりと2人の関係性や気持ちについて言及はされない。

ただあるのは、マキシムがもうすぐオーストラリアに行ってしまうということと、幼馴染の2人の関係がキスによって微妙に変化した、という事実だけだ。

ただ、2人は一般的な「恋愛関係」というところに落ち着く選択をしなかったのだろう。マティアスは出世をし、愛する恋人と結婚をする。マキシムは兼ねてからの希望であった「生き直す」ことを実現させる。そして2人は幼馴染である。これが変わることのない「今」なのだ。

多くを語らないストーリーで、全てを理解したとは言えないし、上記も私個人の見解であって全く違う意見の人もいるだろうと思う。もしかして監督ご本人の意図したところとは全く別の視点で見てしまっているのかもしれない。

ただしそれもこの映画の特徴なのだろうと思う。見る人の視点は常識や偏見、歩んできた歴史や思想により景色は変わる。だからこそ、あれこれ思いを巡らせるのが楽しみでもある。
この監督の他の作品、以前に観たと思われるやや記憶が曖昧な「わたしはロランス」を含め観てみたいと思う。

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玉置ゆう
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