山上ちはる
チョップリン西野と脚本家山上ちはる が、交換日記の様に、交換小説を書いていきます。(なるべく)交互に物語を繋げていきます。主に短編。暇な時にでも読んでみて下さい。
それから二か月近く、私は敢えて祖父の容態を尋ねなかった。死んだらどのみち言ってくるだろうし、何も聞かないということはまだ生きているということなのだろう。何より相手は野犬なのだ。老いて弱ったところを目の当たりにしたからといって、急にペット感覚で気にかけるというのもおかしい。そういう考えからだった。 そんな中、今度は両親が私の家へ来た。夏休み中の子どもと遊ぶためだ。川へ行ったり、プールへ行ったり、いろいろと相手をしてもらえるのはありがたかったが、なぜか祖父の話は一向に出てこない
その後、運ばれた病院で検査してもらったところ、もともと内臓で炎症を起こしていた上、熱中症で脱水も進み、極めて危ない状態にあったことが分かった。あのトマトがなければ、本当に死んでいてもおかしくなかったわけである。とりあえず良かった、と連絡した家族たちは口々に言ったが、あのトマトがいつ、どこから湧いてきたのかは謎のままで、結局それも祖父の野性の為せる業だったとしか私には説明が付かない。 翌日に私は帰ることになっていた。しばらくはこちらに来る予定もないので、入院の荷物を届けるつい
翌日は打って変わって快晴だった。日差しは容赦なく照り付け、気温も急激に上がった。祖父のことが気がかりではあったが、私の話を聞いた両親がそれを全く深刻なことと受け止めなかったこともあり、午前中は元の予定をこなした。しかしそうは言っても、流されたか野垂れ死んだか、薄々感づいていながら平気で放置しておけるほど私も図太くはない。やっぱり、ということになった時の後味の悪さを考えると居たたまれず、午後に再び山の家へ向かった。 祖父の姿はやはりなかった。大雨の間は仮に弟妹の家に身を寄せて
父方の祖父は97歳になるが未だ健在で、山中の家で独居を続けている。兵隊として中国に行った以外はずっとそこに住み米を作っていた人で、学も財も地位もないが、動物として考えた場合これほど優秀な個体もあまりないような気がする。まず97に見えない。そして何より頑強だ。農作業で鍛えられた身体は筋肉質で足腰に衰えも見られない。大病を患ったこともなければ目や耳も悪くない。頭髪には後退も見られず黒髪の率も高い。戦争や事故で幾度も生死の境を彷徨う経験をしているにもかかわらず、その都度復活している
もう最近はこんなことあまり言わないほうがいいのかもしれないと思っているが、あのドアに誰も気が付かないのがやはり不思議でしょうがない。本当に気付いていないのか、気付かないふりをしているのかも分からないが、これだけ目につく場所に、しかもあちこちにあるのに気が付かないというのは個人的にはあり得ない気がする。 そんなことばかり考えているうちに外に出るのも億劫になってしまった。でも仕方なく出なければいけない時、やはりドアは目につく。その辺の道端のコンクリート壁にもあるし、貸家の入口と
なかなか、乗り心地はいいのよ。この椅子も特注なんでしょうね。座ってても全然疲れないの。不満? ないよ。知らなかった頃はね、さすがにうーん、どうなのかなぁと思ってたけど、乗ってみればね、あとは何とかなるもんよ。 だって座ってるだけでいいんだもんね。あとは勝手に進んでいくんだから。何も考えなくていいの。必要なものは全部持ってきてくれるでしょ。だから何の心配もいらないの。時々カレンダー見て、ああ、もう五か月と二十五日も経ったのかぁ、と思うくらい。最初の頃はまだ一日、まだ二日、まだ
この人は無理をしているんだろうか。こんなに酷い、人を人とも思わぬ仕打ちに遭って、慰めてくれる人もおらず、それどころかより激しく、致命的な攻撃を加えたくてたまらない大勢の人たちに囲まれている。でも特段それを気にする様子もなく、幾か所もの痣をコンシーラーで隠す一人の時間をこの人は「自分磨き」と呼ぶのだ。 この人は誰かにこれを強いられているのだろうか。こんなことでもしないと生きていけないとでもいうのだろうか。望んだことなのだ、とこの人は言う。毎日が充実していて、楽しくて仕方がない
××は歩いていた。もう大分長いこと歩いていた。面白いことも別にないが、なぜか疲れも飽きも感じなかった。それで最後まで辿り着くと思っていた。最後というのが何なのか××は知らなかったが、行けば分かるだろうと思って歩いていた。 誰にも会わなかった。特に困ることもなかった。街中を通り抜け、人里離れた山奥も通り過ぎた。道は時々途切れていた。だがそういう時も、とりあえずまっすぐ進むだけだった。時々、昔覚えた歌を口ずさむ以外、音も言葉も××には無縁だった。考えることもなかった。靴が擦り切
「え?」 それはいささか意外な問いかけだった。何とか食い下がろうとしているのではなく、女は心から理解できないという顔で私を見ていた。私にもその質問の意味はよく分からなかったが、平気かと言われれば平気だという答え以外に何も浮かばなかった。 「それで本当に……本当にいいんですか?」女は言った。 「ごめんなさい。さっきからおっしゃっている意味がよく分かりません」 「それであなたには何が残るんですか?」女は私の言葉を半ば遮るように言った。 「ますます訳が分かりませんね」私は言った
「ああ、話にならない」私は言った。「ねえ、もうそもそもの話なんですが、私はこれ何の抽選なのかも分かってないんですよ。肝心の中身を誰も説明しようとしないじゃないですか。尋ねても質問の意味が分からないような顔をする。誰に聞いてもそうですよ。ええ、私は単にやりたくないと言ってるだけじゃないんです。一体これは何なんですかと聞いているんですよ、最初から。分かりもしないものの相続とか言われたって、何をどう考えようもないでしょう」 「あのー、抽選会のとき倒れた吉倉さん、いらっしゃったでしょ
世話になったスタッフに礼を言って外に出ると、日が沈む前の一時だけに吹き渡る爽やかな風が青々とした稲穂を揺らしていた。田んぼの中に造成されただだっ広い駐車場には私の車だけがぽつんと停まっている。遅れてやって来た疲労と不思議な充実感に包まれながらとぼとぼと歩いていると、背後でドアの開く音がした。私は振り返らずに歩き続け、車に乗り込んだ。シートベルトをしてミラーに視線をやると、スタッフ用の駐車場から駆け足でこちらへ近付いてくる二人組が見えた。追い付いた二人組は不躾に窓から中を窺った
「いやいやちょっと、自分で歩けますから。こういうのはさすがにまずいと思いますよ。このご時世にこんなやり方、しかも役所がっていうのはね、どこでどう火が付くか分かりませんよ? ほんとに。その辺りのことまで考えていらっしゃるんでしょうかね」職員たちの反応はない。「いや、実際しませんけどね。しませんよ。でもこのこと私がSNSや何かで発信したらどうなると思います? よくあるじゃないですか、それで騒ぎになるっていうの。やろうと思えば簡単にできるんですけど? そういう可能性もあるってこと分
「宮本さんね」声を掛けられた職員はこちらを見もせずに言った。「そういう態度はね、都会では通じるのかもしれませんけど」 「そういう態度っていや、関係ないでしょ。人倒れてる時に」 「お願いしますね」 何をお願いされたのかも分からないまま職員は行ってしまった。荷物でも放り投げるように老婆の身体が椅子の上に横たえられたのが見えた時、消毒液係が再びドアを固く閉ざした。抽選は続いていた。 しばらくは私も我慢していた。救急車の音でも聞こえれば少しは慰めになるのだが、外は静かで、一向に何
私はそれを拾い上げた。職員たちが気付いている様子はない。今更これのせいで会が長引くのは嫌だった。このまま黙って握りつぶそうと思った。だがふと閃いた。叩きつけてやろう。右往左往している職員たちに、あなたたちのせいでこんなことになったのだと知らしめてやろう。私は隣にいた年配の男性職員に葉書を差し出した。 「これ、落ちてましたけど。この方、明らかに番号が当たったショックで様子がおかしくなられましたよ」 男性職員は黙って葉書を取った。結局この抽選で何を決めているのか、と続けて尋ね
だが私の視界の片隅で、老婆は必死の懇願を続けた。痺れを切らして私は言った。 「……どうされたいんですか?」 その時、常にちらちらとこちらをマークしていた消毒液係がいきなり叫んだ。 「宮本さん!」 「え、私ですか?」 問いかけに答えることなく消毒液係が私を睨んでいる。一瞬、なぜ名前を知っているのだろうと思ったが、そうだ、私の個人情報を私以上に把握しているのはまさにこの連中なのだった。 「――静かにしてください」消毒液係が冷ややかに言った。 「は? してますけど」 ぶ
しかしそれは何だ? 町内会の役員決めみたいなものだろうか? でもそれくらいのことであんな反応になるだろうか。それに大体このご時世、いくら閉鎖的な田舎の話とはいえ、個人の都合を度外視した、有無を言わさぬ強制力のある何かなどあるだろうか。考えているうち、そんなことに真面目に付き合わされていることに対し、呆れるのを通り越してだんだん腹が立ってきた。 だが抽選は淡々と進んでいった。もっともいくら不合理でも、それに大声で抗議するほどの正義感は私にはない。そもそもここの人間ではないし、