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うつ日記vol.28~子どもの頃の記憶~
長文です。
私が小学1年生の時、父はアメリカに1年間留学した。
そして、小学2年生の時、母がイギリスに1年間留学した。
私には、年が少し離れた兄が2人いる。3人兄妹だ。
両親は、田舎の町で、学習塾・英会話・そろばん教室を始めた。
まだ、他に塾はなかった頃だ。
子どもはその昔は、たくさんいたので、生徒はたくさん集まった。
母は、東京からネイティブスピーカーを雇って、週末はいつも金・土と、私の家の客間に泊まった。
母が留学していたときの友人が日本に来て、私が中学生や高校生だったころ、家に長期滞在することもあった。
ここで問題は、母がゲストを常に一番に考えていたことだ。子どものことは二の次。というか犠牲にした。
日曜日の朝。両親はもう仕事を始めている。小学生の私は、10時から英語教室があった。が、ネイティブがリビングにひとりでいたら、どうしようと、はずかしくて、下の階に中々ひとりで降りていけなかった。
母が上に上がってきたら、一緒に下りようとか、兄が起きたら、一緒に下りようとずっと待っていた。
この心配・恐怖が毎週。何年も続いた。
朝だけど、Good morning. と言うのは長いから、いつもちょっとでも短く Hello. と言った。
とにかく私は、shyだった。
自分の家なのに、自分の家のようでない。
安心して、いられない。
ずっといやだったのが、日曜日のお昼ごはんだ。
外国では、いつも家族みんなでごはんを食べるから、 必ず一緒に食べることと母にきつく言われていた。
両親がゲストをもてなす。和やかにみんな英語で会話をする。
兄たちも、理解できる。話せる。
英語が解らないのは、私だけだ。
地獄の時間は、何時間も続く。
みんなが、会話して笑っている。
私は何を言ってるのかわからない。
笑ってないのは私だけだ。
そのうち、私は、何を話しているのか、勝手にひとりだけの妄想をするようになった。
みんなが笑うと、こんなことでおもしろいのかなと、勝手に私の中だけのお話を作り、みんなより、少し遅れて、ヘラヘラと笑った。
何もおもしろいことはないのに。
中学生になると、ネイティブが何を言っているのかは、わかるようになった。
が、日曜日の長いランチは、耐えられなくなって、近くのおばあちゃん家に行って、食べるようになった。
おばあちゃんは、お店をやっていて、店番があるので、私はテレビを見ながら、ひとりでお昼ごはんを食べた。
いつも、ごはんとレトルトのハンバーグ、卵焼きだった。
卵焼きをどう作るか、おばあちゃんに教えてもらい、自分で用意して食べた。
家では、テレビを見ると母に怒られた。
まだ、ゲストが帰ってないかな、帰ったかなと思いながら、おばあちゃん家で、おもしろくもないテレビを見て待っていた。
帰りたくても帰れなかった。
駅にゲストを送った帰りに、母がおばあちゃん家に寄ることがあった。
あの人がまだいると思って帰れなかったんでしょう?と、私を冷やかして笑った。
ゲストがいるとき、部屋から出るときは、必ず Excuse me. と言ってから出なさいと言われていたけれど、これが、はずかしくて言えなくて、苦痛だった。
家に、何か包み紙の食べ物らしきものを見つけると、「これ、食べていい?」と必ず、親に聞いた。
母親に聞くと、「これは、ゲストからもらったものだから、あの人にお礼を言ってから食べなさい」と言われ、英語を話したくない私は、「じゃあ、いい。」と言った。
母は、「なんで?はずかしいんでしょう」と、私をからかった。
父親に聞くと、「ここは、Hikaruのお家なんだから、何でも食べていいんだよ。お皿だって、食べたっていいよ。」と、言ってくれた。それが、おもしろくて、うれしかった。
あと、よくあったのが、「ゲストと写真を撮るから来い」というもの。
私がどんな状態・気持ちのときでもおかまいなし。
直前に母親にひどいことをされて、泣いていようが、写真を撮るときは、引っ張り出され、真っ赤な目で笑う。
私は、悲しいときに、「悲しい」と泣くことがうまくできなかった。
時々、今、ちょっと泣いとこうと、ヘラヘラと泣いていた。
カウンセリングを受けたときに、カウンセラーから、「ちょっとガス抜きしとこうみたいに泣いてたんだね」と言われたが、ほんとそんな感じだった。
母は、私の大事なものを取ろう取ろうとした。
私が外出から帰ってくると、私が作ったパイナップルアイスを、訪ねてきた教え子たちに勝手に振る舞っていた。
私は、教え子たちの前で何も言えないし、しかもくやしかったのは、そのアイスがパイナップルが熟していなかったため、納得できない出来だったのにも関わらず、hikaruの作ったものだよ、と出されていたことだ。
二重に傷ついた。
高校生のとき、クッキーを作って、部活に持っていこうとした。
そうしたら、母は、家にある材料とオーブンを使っているのだから、半分は家によこせというようなことを言った。
私は、いやで、自分の部屋に焼けたクッキーを持っていって、取られないようにした。
父は、お風呂上がりに、2階の寝室へ行くとき、私の部屋で、ひとつつまみ食いをしたらしい。
後から、そのことをいたずらっぽく言って、おいしかったなと。
それは、おもしろかった。いやではなった。
私が楽しい時間を過ごすと、その後に必ず、母にひどく怒られた。
母は、私が楽しい時間を過ごすことを望んでいないのだろう。
小さかったとき、町内会の集まりで、母に一緒に連れていかれた。
おじちゃんがひざにおいで、おいでというから、私はおじちゃんのひざに座った。
帰るとき、何でひざに座ったんだ?おまえはするべきではなかったと、母にものすごく怒られた。
母の農家をやっている友達の家に、私とひとつ違いの友達がいて、何度か泊まりに行った。
栗拾いをさせてくれた。私はうれしくて、たくさん栗を拾いたかった。
母は、そんなに拾うなと、怒った。
私がもし母の立場だったら、友達にお金を払ってでも、子どもにたくさん栗を拾わせてやりたいと思う。
私が小さかったころ、両親は、土日も仕事だったから、母は女の子をアルバイトで雇って、私の面倒を頼んでいた。海に連れていってもらって、泳いで遊んだ記憶がかすかにある。
自分の家なのに、安心していられなかった。
ネイティブが長期滞在していたときは、家の中に、家族以外の第三者がいて、私は思春期で、他にも家族が抱える事情があったりして、家族の問題が、余計に複雑になってしまった時期もあった。
何度も外国に行かせてもらったけど、行ったら英語の勉強のために、一切日本語はしゃべってはいけないと、母からの呪縛があり、他の生徒さんたちのように楽しめなかった。
親の愛は無償だなんていうけれど、
母親からは、give and take だと言われたことがある。
父親は、おもしろいことを言って、いつも私を笑わせてくれた。かわいがってくれた。
私は、父親がかわいがってくれたように、娘をかわいがっている。
おもしろいことを言って、娘を笑わせるのも大事な私の役割と思っている。
子どものころ、両親とも忙しくて、構ってもらえなかった記憶があるので、娘と付き合うときは、とことん付き合うようにしている。
今は少し過保護でも、娘の安全地帯となって、しっかり自分の足で歩んでいけるように、サポートしていきたい。
そして、娘に、幸せになってほしい。
(おまけ)
大学の研究室に入ったとき、先生のお宅に研究室の学生が招待されるということがあった。毎年行っているということだったが、そこで印象的なことがあった。
先生には2人の娘さんがいた。
毎年、学生たちを招待して会食なんて、娘さんたちは、いやだろうなぁと私は思った。
学生みんなで訪ねて行くと、上の娘さんが一緒だった。
出された料理は、先生の奥様の手料理だ。先生もキッチンに立って、手伝ったりしている。
おいしいお料理をごちそうになり、デザートのケーキを先生夫妻が配ろうというとき、「これは、下の娘の分に取っておこう」と、一切れをまず娘さんに取りおいたのだ。
私は、ゲストを迎えても、まず自分の子どもの分をちゃんと取っておいてくれる先生夫妻に感激した。
こんな風に大事にしてもらえたら、うれしいだろうなぁ。私もうれしかった。
今でもよく覚えている出来事だ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
感謝いたします。