四天王寺の大梵鐘は何処に?
国家プロジェクトだった四天王寺の大梵鐘製造
戦争のあった時代、金属供出令が出され、全国の鍋釜が家庭から軍に供出されました。
仏像も例外ではありませんでした。たくさん供出されました。
仏像だけでなく、いや仏像以上に金属供出されたのが、お寺の鐘です。
梵鐘。
たとえば、四天王寺さんには全長 2 丈 6 尺、つまり 8 メートル近くの大梵鐘があったのですが、これも軍に供出されてしまいました。
もともとは、明治36年(1903)の第5回内国勧業博覧会(「内国」とあるけど、諸外国のものも陳列されており、事実上の「万博」です)と聖徳太子1300回忌の共同事業として製造され、国家プロジェクトだったと言われているものです。
そんな我が国の宗教的なシンボルも、完成からわずか40年で溶鉱炉の中に消えてしまいました。
国家プロジェクトだったゆえに、超巨大な金属の塊だったゆえに、それを兵器に転用することを社会に見せつけ、国威発揚につなげる目的がありました。
全国50,000口の梵鐘の大半が供出された
金属供出は昭和14年(1939)にはじまっていますが、当初の日本の戦局はそれほど切羽詰まったものではなく、供出対象も、ベンチや灰皿などの15品目にかぎられていたそうです。
ところが、昭和17年(1942)以降、戦局の激化に伴って、マンホール・建物の鉄柵や手すり、銅像、寺院の仏具や梵鐘なども対象になっていきます。
小学校にあった二宮金次郎像なんかも対象になったと言います。
新世界の通天閣、渋谷のハチ公も溶かされ、兵器になりました。梵鐘は、戦前には全国に50,000口あったと言われていますが、ほとんどが供出されました。現在のお寺さんにある梵鐘の多くは、戦後、鋳造し直されたものがほとんどです。
四天王寺の大梵鐘はバラバラに
四天王寺の大梵鐘は、あまりの巨大さに搬出ができず、その場でバラバラに細断されて、軍需工場へ運ばれました。梵鐘をつくってからお堂を建てているので、お堂から出せないんですよね。痛ましい写真が残されています。
四天王寺だけではなく、全国から梵鐘が集められ、溶鉱炉で溶かされました。
金属供出は、日米が開戦する直前の昭和15(1940)年9月、アメリカが屑鉄などの対日輸出禁止措置に踏み切ったことに端を発します。いわゆる経済制裁、経済封鎖ですね。対中国の満蒙政策などに反発した国際世論が、そうさせました。
梵鐘の供出に際し、各寺院では「撞き納め式」がおこなわれたようです。 赤紙によって召集を受けた兵士と同じように、梵鐘にも赤いタスキが掛けられました。清酒や赤飯が梵鐘の前に供えられ、万歳三唱がおこなわれ、最後は住職によって撞き納められ、各地の梵鐘は「出征」していったと言います。
梵鐘を供出したお寺さんには、感謝状が送られています。 感謝状を出しているのは、「財団法人戦時物資活用協会」とあります。そんな財団法人がつくられていたんですね。
ちなみに、供出とあるけれども、供出されたものは、公定価格でグラムいくらで、買い取られ ています。政府が直接手を下すのではなく、外郭団体をつくって、あくまで民間が自主的にやっているの だという体をとっています。
このへんの仕組みは、今もむかしも変わらないですね。
コンクリートで代用された鳴らない鐘
家庭の鍋釜などは、申し込めば、代替品が用意されたそうです。お寺さんでは、梵鐘がなくなったあとに、ドラム缶や石をぶら下げたりしたところもあったそうです。滋賀県には、いわゆる「鳴らない鐘」がいくつか現存しています。最初に紹介した上野大仏 同様、戦争遺構ですよね。
京都の真如堂には、穴が 2 ヶ所空いている鐘があります。金属の含有量を測定するためにボーリング検査をほどこされました。でも、直前になって終戦を迎え、奇跡的に「生還」しました。