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お堂の外にいらっしゃる石仏群


お堂の外にいらっしゃる石仏群を紹介します。
みうらじゅんはウィ・アー・ザ・ワールドと言っていましたが、肩を寄せ合って集団でそこに安置され、風雨に耐えている石仏群を拝むのもいいものです。

賽の河原を思わせる化野念仏寺

嵐山、渡月橋を南から北へ大堰川を渡り、ずっと北上して30分ほど歩いて喧騒を抜けると、化野念仏寺というお寺に到着します。
ここいらは古代から風葬の地です。
京都には「西の化野」「東の鳥辺野」「北の蓮台野」(北山)と3つの葬送の地がありました。
「東の鳥辺野」の入口は、東山の河原町の近くにある六道珍皇寺です。六道参りのお寺さんですね。前回紹介しました。あの世の冥界と現世をつなぐ井戸があり、小野篁がその井戸をつたって、あの世とこの世を行ったり来たりして、あの世では閻魔大王に仕え、この世では朝廷の役人として働くという、ダブルワークをこなすタフな人がいたお寺です。

そんなふうに、東の鳥辺野もあの世と近い場所にあるエリアですが、嵐山の「化野」もそう。葬送の地でした。

京都の三大葬送の地

嵯峨野の化野には、化野念仏寺があります。
明治時代になって発掘された石仏なのですが、ここには、平安から現在に至るまでの約8,000体のお地蔵さんが鎮座しています。
無縁仏のお地蔵さんがところ狭しと並んでいる姿は賽の河原を思わせますね。
毎年、8月最終の土日に、千灯供養がおこなわれます。
そう聞くと、やっぱ、お盆の頃に訪れる場所という印象があるのだけど、その時期は、混みます。
9月や10月に参拝と、静かでいい趣です。

賽の河原を思い起こさせる化野念仏寺

羅漢さんがいっぱいの愛宕念仏寺

さらに奥に行くと、「愛宕念仏寺」というお寺があり、こちらも化野念仏寺のように石仏がところ狭しと並んでいるのですが、愛宕念仏寺の石仏はお地蔵さんではなく、羅漢さんです。
奈良・天平時代に創建された古い古いお寺さんですが、昭和30年代、寂れるんですね。そのときに。仏像彫刻家の西村公朝が住職を拝命し、再興していきます。
昭和55年に甚大な台風被害に遭い、その復興に、境内を羅漢(お釈迦様の弟子たち)の石像で充満させたいと企画します。これに賛同した一般の参拝者たちが、石仏を彫りました。1,200体の羅漢像。今で言うところのワークショップのようなものですね。今も羅漢さん像が増え続けているので、たぶん、今も羅漢さんづくりが続いていると思います。

羅漢さんとは、お釈迦さんの弟子で、非常に徳の高い、仏さんに近いお坊さんのことです。キリスト教で言うところの、「聖人」です。
こちらの石仏は愛嬌のあるかわいいものが多いので、見ていて楽しいかと思います。

愛らしい羅漢さんがたくさんいらっしゃる愛宕念仏寺

目黒の羅漢さんのテーマパーク・五百羅漢寺

羅漢さんといえば、18世紀、江戸で突如として羅漢ブームが起こります。
松運元慶という仏師が五百羅漢像を彫り、将軍・徳川吉宗の援助を受けて、テーマパークのような特異なお寺を建立したためです。

東京の目黒にある、その名もずばり「五百羅漢寺」です。創建当時は、本所にお寺があったそうです。
屋根が特徴的な本堂に羅漢像が安置されているのだけど、そこに収まりきらない羅漢さんが、その隣に建てられた「羅漢堂」に収められています。
先ほど見た愛宕念仏寺の羅漢さんと違って、めっちゃ人間臭い羅漢さんたちが、ここにはたくさんいらっしゃいます。

『江戸名所図会』を見ると、片肌を脱いで頭に手をやる羅漢さんをはじめ、前に賽銭箱が置かれている羅漢さんがいたり、なかなか商売上手な様子が見て取れます。とても「聖人」たちの集団には見えない(笑)
参詣者はいろんな像を指差しながら、同伴者と楽しげに語り合ったり、子どもをおんぶしたお父さんの姿も見えます。化野念仏寺の雰囲気とはまた違った、江戸の庶民信仰の様子が伺えます。

五百羅漢寺の羅漢堂に収められた羅漢さんたち
『江戸名所図会』に描かれた五百羅漢寺。羅漢とは思えないほど人間臭い人たちがたくさん描かれ、江戸の庶民に親しまれた様子がうかがえる

アショカ王の仏舎利塔がある石塔寺

さて、この手の数で勝負するぜ!的なので、圧巻なのは、滋賀県東近江市にある「石塔寺」ではないかと思います。
寺名の通り、境内には、阿育(アショカ)王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、数万基の石塔や石仏が並んでいます。
まー、圧巻です。

石塔寺は、聖徳太子創建の伝承を持つ寺院で、伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したということです。
無論、聖徳太子や行基や空海といったスーパースターの名にあやかりたい人は多いので、彼らが建てた寺や架けた橋は無数にあることになっていて、額面通り信じるわけにはいけません。
この石塔寺の聖徳太子創建話も、ほんまかいな!と考えておいたほうがいいかもです。
でも、この地が早くから仏教文化の栄えた土地であることは確かです。東近江には渡来人がいた痕跡もたくさんあります。

石塔寺境内には数万基の石塔や石仏があって、ひときわ高くそびえる三重石塔があります。
この三重石塔には、次のような伝承がある。
平安時代の長保3年(1003年)、唐に留学した比叡山の僧・寂照が、唐の僧から、「むかし、インドの阿育(アショカ)王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国の渡来山(わたらいやま)の土中にある」という話を聞いたそうです。
寂照は、日本に手紙を送ってこのことを知らせます。
3年後の寛弘3年(1006年)、その手紙が一条天皇の元に届き、勅命により、塔の探索がおこなわれます。
すると、石塔寺の裏山に大きな塚を発見し、掘ってみたところ、阿育王の塔が出土しました。
一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺としました。
以後、寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、大伽藍を築き、現在に至っていると縁起にあります。

縁起はともかく、件の石塔は、実際には奈良時代前期に、朝鮮半島系の渡来人によって建立されたとされています。様式が当時の日本のものとまるっきり違っていて、朝鮮半島の古代の石造物に類似しているそうです。

琵琶湖の東側、湖東地区が渡来人と関係の深い土地であることは、『日本書紀』に天智天皇が、百済(当時すでに滅亡していた)からの渡来人700名余を近江国の蒲生(僕が愛してやまない日野町のあるところですが)へ移住させた旨の記述があります。

インド由来であり、渡来人の色が濃く残っており、圧倒的な石塔群あり、石仏もあるのですが、というわけで、なかなか奥の深いお寺さんです。

そうそう、お釈迦さんの誕生日の花祭りのとき、白像のつくりものが登場するんですよ。
滋賀県には変なお祭りが多いのですが、これもそのひとつかもですね。

これでもかと数万基の石塔や石仏が並ぶ石塔寺

西方阿弥陀浄土を表した鵜川四十八体石仏群

今、琵琶湖の東の東近江の石塔寺を紹介しましたが、今度は湖西の近江高島にある鵜川四十八体石仏群を紹介します。
広島の厳島神社のように、水中から鳥居が立っている白鬚神社の近くにあります。
琵琶湖を望む湖畔の、しずかにおわします。
現在は33体しかいらっしゃらないのですが、元は48体でした。全員が定印を結んだ阿弥陀如来坐像です。西から琵琶湖を望んでおられます。
宇治の平等院や木津の浄瑠璃寺でお話ししましたが、阿弥陀さんは西方世界、未来の理想の世界を司る如来さんです。ここでも琵琶湖の「西」に鎮座されてますね。

琵琶湖を三途の川と見立てて、鵜川四十八体石仏群は安置された。西方阿弥陀浄土の世界観が見て取れる

室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため、観音寺から見てちょうど対岸にあたる高島市鵜川に建立したものです。
観音寺は琵琶湖を挟んで湖東にあるお寺さんです。
亡きお母さまが、観音寺から、三途の川に見立てた琵琶湖を渡り、あの世に向かうに際して、阿弥陀如来さんの導きがありますようにと、湖西の高島に阿弥陀如来さんを48体安置しました。
静かに並んで座っている石仏は、大きさも少しずつ異なり、ユーモラスなものやあどけない顔、慈愛に満ちたものなど、いろいろあります。
なぜ48体なのかというと、阿弥陀四十八願という信仰に因んでいるようです。
四十八願は、アフロ仏のところでも出てきた「無量寿経」に説かれています。
この世界にあまねく光が照らされるように、悟りを開いて地獄に落ちませんように、などなど、48の願い事を誓願する、つまり誓い願う、というものです。
こうしてたくさんの仏像がいらっしゃると、1体1体が違うので、見ていて楽しいものでもあります。

琵琶湖の西のほとりに佇む鵜川四十八体石仏群


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