鯰(ナマズ)絵の世界
江戸時代後期の震災がかわら版や鯰絵を発展させた
江戸時代末期、大地震が相次いで我が国を襲った。
1847(弘化4) 善光寺地震
1853(嘉永6) 小田原地震
1854(安政1) 安政大地震(南海トラフ)
などなど。
大災害や戦争は新たな表現を生むというけれども、江戸時代後期に起こったこれらの震災後には、夥しい点数の「かわら版」が出版された。
なかでも安政大地震直後から地震による火災で類焼した場所を地図や絵図の上にプロットした「焼場方角付」が多数売り出され、やがて相撲の番付を模した「見立番付」や、俗謡・狂歌・戯文の体裁をとって地震後の世相を風刺するものなど、さまざまな一枚摺りや冊子が売り出された。
鯰(ナマズ)絵は、その一種。
直接的には、地震の元凶と信じられていた大ナマズをモチーフに取り入れているのが特徴だが、
「かしまの御神像をあまたの人拝する画」のように、ナマズをコントロールする側の鹿島神や要石などを題材にしたものから、被災して損害を被った富裕層を風刺したものなど、より広い画題のものを含むことが多い。
鯰絵の定義はいろいろあるのだけど、特徴的なのは、戯画性があるという点ではなかろうか。
というのも、鯰絵のほとんどは無届の出版物で、幕府の統制から逃れており、したがって、当局の出版許可を得た印である「改印」や絵師名、版元名も記載されていない。つまり、きわめてアングラ性が高いのが鯰絵なのだ。
しかし後年、当代一流の浮世絵師が製作に関わった美麗な鯰絵や、地震に関する情報を総合的に編集した『安政見聞誌』や『安政見聞録』など、高度な印刷技術を駆使したものも出版されたことも、見逃せない。
そんな、江戸時代の出版文化としての鯰絵を見ていきたい。
まずは、鯰絵ではない、速報版のようなかわら版を。
速報版としてのかわら版
『江戸大地震并ニ出火細鑑』(黄雀文庫蔵)は、震災が起こった直後に出版されたかわら版。
地震後に出火し、また類焼に及んだ場所について、細かに記した帳面である。速報なので、情報が随時更新され、何度も発行された。
類焼場所を大きく分類し、分類ごとに通りや屋敷名まで詳細に記している。
前書きに、地震後の類焼場所については「遠くの親戚に知らせたいが書き尽くし難い」とあり、江戸における地震の被害を縁者に知らせていたという、人々の行動が分かる。
スピード重視のかわら版は、木版1枚を摺ったシンプルなものも多く、製作者不明、幕府の検閲を逃れ、校閲・校正なしのアングラなものが多い。
『安政大地震江戸市中被災図』(個人蔵)では、家屋が倒壊して火災に包まれる墨田川の東岸エリアの惨状が精緻に描かれている。遠景には、浅草や深川が見える。
寛永江戸地震、元禄江戸地震といった過去の大地震にも触れ、安政大地震の被災状況や御救小屋(幕府や藩などが設立した公的な救済施設)の場所を記している。
『江戸大地震大火方角附 世直り細見』(個人蔵)は、江戸市中のマップの上に、地震による被害をプロットしたもの。凡例では、濃い紅色が出火場所、薄紅色が建物が倒壊した場所を示す。江戸城の東と墨田川の両岸の被害が大きかったことが分かる。
安政大地震を扱った地震誌は多数出版されているが、『安政見聞誌』(国立歴史民俗博物館蔵)はその代表作例。テキストを戯作者の仮名垣魯文が書き、歌川国芳、歌川芳綱、豊原国周らの浮世絵師が挿絵を担当した豪華版だ。
市中の被災状況だけでなく、地震にまつわるエピソードや震災後の摺物類を収載するなど、掲載内容は多彩だ。
無届出版であることから発禁処分を受け、版元も所払いに処された。
『安政見聞録』(国立歴史民俗博物館蔵)は服部保徳の作で、歌川芳晴と梅の本鶯斎が挿絵を描いた、安政大地震に関するエピソード集。
震災に対する関心や地震前の生物の異常行動など、科学的な視点も押さえている。挿絵の震災風景の描写精度が高く、『安政見聞誌』と比べて風俗画要素が強い。
また、安政大地震で亡くなった人々を供養する施餓鬼法要が、数多くの寺院でおこなわれた。
そのことはさまざまな摺物や地震誌に取り上げられているが、閻魔王の前で裁きを受ける亡者を描いたものも散見された。
仏教の六道輪廻の世界観では、亡くなった人は閻魔王の前で生前のおこないを裁かれ、極楽か地獄に送られる。
地獄では、亡くなった大勢の人々は皆傷ついており、閻魔王をはじめ、閻魔の書記官、赤鬼青鬼、生前のおこないを閻魔王に告げ口する男女の檀拏幢(だんだとう)、三途の川のほとりにいて服を脱がせる奪衣婆もいる。
地獄で苦しむ人々を救済する地蔵菩薩が錫杖を振り上げ、ナマズを退治しようとしている。
鹿島神や恵比寿とナマズ
さて、人智を超えた被害に遭った人々が神仏への信仰にすがるのは、古今東西変わりがない。
そんな人々の感覚が、安政大地震に遭って想像力を豊かにし、鯰絵は多様化した。
地震は地中深くにいる大ナマズがのたうつことで起こり、鹿島神宮の要石が地下でその頭部を押さえていると信じられていた。
しかし、神無月になると、全国の神々が出雲大社に集結し、鹿島神も例に漏れず鹿島神宮を不在とすることから、ナマズが動き出したと考えられている。
そのため、鹿島神によって厳しく叱責されるナマズの姿が数多く描かれた。
また、伊勢神宮がいち早く江戸の守護に駆けつけたという伊勢信仰の一端を物語るものなども描かれている。
神無月の10月は江戸ではえびす講の月であることから、江戸に残った留守居の神さんとして、恵比寿が多くの鯰絵に登場している。
『鹿島要石真図』(黄雀文庫蔵)では、上半分に鹿島神社の要石が祀られ、下半分には鹿島神が大ナマズに神剣を立てて退治している様子が描かれている。
その周囲には職人道具と小判が散らされており、地震が、被害をもたらすばかりではなく、富をももたらすのだということが象徴的に描かれている。
『鯰の流しもの』(黄雀文庫蔵)では、天照大神が吟味役の鹿島神を従えて座す裁きの場に、恵比寿が鯰たちを引き立てている。
これまでの諸国の地震(ナマズ)の骨を引き抜いて鍋焼きにするところを格別の赦しにて外国へ島流しにするとの上意に、ナマズどもは恐れ入って謝罪したとある。
江戸時代、外国といえば江戸以外の諸国を指すが、ここでは文字通りの外国と考えられており、黒船来航時代の世相を見ることができる。
『八百万神御守護末代地震降伏之図』(黄雀文庫蔵)では、鹿島神を先頭に恐れる江戸の神々と、平身低頭の地震ナマズたちが詫び証文を交わしている。
被害が少なかった神田大明神と山王大権現が取りなし、月当番の深川恵比寿がナマズたちの介添えである。
印を捺す江戸地震ナマズの背後には、信州、越後、小田原地震が控えている。震えながら捺印したので日々少し揺れた、と、余震のことが記されている。
証文の朱文の印形示され、懐に入れておけば地震の難から逃れることができると記されている。
『自身除妙法』(黄雀文庫蔵)に描かれた鹿島神の怒りにひれ伏すナマズたち。
気候の不順が続き、おもしろい時節になったと騒ぐ者が現れたと、ナマズの親分が平伏し、深く詫びている。
今後は日本の土地を守ることを約束して許された。
右下の梵字は、家の四方と天井に貼ると、地震が襲っても難を逃れて何事も起きないという。
『恵比寿天申訳之記』(黄雀文庫蔵)では、神々が出雲大社へと集まる神無月、恵比寿はえびす講のために江戸に残り、留守を守っていたと考えられた。
詮議する鹿島神の前にナマズの集団が控え、恵比寿が申し開きをしている。
ナマズ集団のリーダーの頭領は妻子も連れての表敬である。
恵比寿のは鹿島神に、天候不順明けで浮かれたナマズたちをコントロールできなかった反省と、二度としないという頭領の謝罪を聞き入れてくれた礼を述べている。恵比寿が泥酔した隙の大災害なので、必死である。
全国の神々が出雲大社へ集まった留守に地震が起こったという関連付けが、多くの鯰絵には見られる。
この『鯰のかば焼大ばん振舞』(黄雀文庫蔵)では、鹿島神は本国からの飛脚で知らせを受け、その夜のうちに鹿島へ取って返し、大ナマズを取り押さえたと記されている。
話し合いを終えた全国の神々が見舞いに訪れるため、捕らえた大ナマズを蒲焼きにして振る舞おうと、讃岐金毘羅宮と西宮戎とで準備におおわらわな様子が描かれている。
こも酒には「要石」の銘がある。
かわら版や鯰絵だけでなく、家に貼るお札も出現した。
『地震除けの守り札』(黄雀文庫蔵)は、実際に地震除けの護符として使用することができるようにつくられている。
東西南北と中央の包囲を護る密教の五大明王の名とともに、それぞれを表す梵字が記されている。
下部では鹿島神が神剣を立てている。
損する人、得する人
安政大地震は最大震度6強と推定されている。
大名屋敷、町家の住居や蔵は倒壊し、直後に発生した30余ヶ所に及ぶ火災によって、7000人を超す死傷者を出しただけでなく、命ながられながらも一瞬にして財産を失くした人も多かった。
大地震は貧富の隔てなく襲ったが、一方で、大工や左官など復興を担った職人たちには、それまでにない量の仕事の需要をもたらした。
また、甚大な被害を負った吉原では、日銭を稼いだ町人たちの来廓によって売上増となるなど、復興景気に湧く人々も多かった。
無論、そのなかには、地震発生の2日後から地震被害を伝えるかわら版や鯰絵を刊行・販売した出版関係者も含まれる。
鯰絵には、被害に遭った人々の怒りや嘆きが描き出され、地震を起こした恨みからナマズを懲らしめて鬱屈した気分を発散する姿が描かれた。
復興景気の恩恵を被った人々の浮かれた様子も描かれており、彼らは成敗されるナマズを擁護する側として登場する。
鯰絵では、人々の利己的でありながらも逞しく生きようとする姿が、ユーモアを交えて浮き彫りにされている。
『鯰退治』(黄雀文庫蔵)では、まな板の上に載せられた巨大ナマズを、大地震で被災したさまざまな職業の老若男女が、よってたかって打ちのめす。
子を背負ったナマズの母が、それをなだめている。
左上には梵字による地震除けの呪文が記され、「東西南北天上へ此のふだをはりおけば、家のつぶるるうれひさらになし」とある。
地震からさほど時間を経ていない、人々が余震に怯える時期に出版されたものだろう。
江戸の庶民にとっては、安政大地震は、そのまえに起こった信州善光寺地震と関連づけて考えられており、『江戸鯰と信州鯰』(黄雀文庫蔵)それぞれの地震を起こしたとされた2匹の大ナマズが取り押さえられている。
額に「信」と書いてあるのが、弘化4年(1847)3月24日、北信・越後西部の「善光寺地震」を引き起こしたナマズ。
押しつぶされて声を上げる人々のほか、善光寺の僧侶たちに押さえられ、蓑笠姿の農民にも鍬で攻撃されている様子が描かれている。
「江戸」と記されているナマズは、震災で被害を受けた武士、遊女、歌舞伎役者、噺家、瞽女のほか、地震を予知できずに信用を失った鹿島の事触れ(近未来を予想する人)たちに攻撃されている。
その一方で、復興事業で賃稼ぎの機会が増えた職人や、職人たちへの酒食の提供で利益を得ている蕎麦屋などがナマズへの攻撃を押さえようとしているほか、おでん屋の女将は、みんなでいじめていることが情けないと泣いている。
地震の被害を受けて怒る人と、地震によって利益を上げた人々の対比が見られる。
吉原は安政大地震で最も震度の強かった地域にあり、家屋の倒壊と直後の火事で甚大な被害を被った。
『しん よし原大なまづゆらひ』(黄雀文庫蔵)では、中央に地震大ナマズが描かれ、花魁、芸者、町抱、客、幇間など吉原で被災した人々がナマズに群がって怒りをぶつけている。
左上に、騒動に駆けつけた鳶や職人が描かれているが、彼らは地震の復興景気で得をした人々なので、口々に仲裁の言葉をあげているのがおもしろい。
ナマズは親分然としているが、雲の上にいるので神様の扱いだろうか。「吾沢銭」は地震で潤ったさまざまな職種がたくさんの銭を自分のものにしたという意味と、神様のお告げ「御宣託」を掛けたもの。
材木屋や鳶職、商人らが身勝手な願いごとを唱えている。
座敷遊びの首引きは、輪にした紐を首にかけ、引き合って勝負する。
睨み合うナマズと鹿島神にはそれぞれ応援団がついている。
『庶民を襲う大鯰』(黄雀文庫蔵)では、侍、金持ち、職人、あんま、遊女など、さまざまな人々が地震を起こしたナマズを蒲焼きにしようとするところに、突然巨大な化け物ナマズが出現する。
人々は泡を食って逃げ惑う。天空では雷神が大ナマズの破壊力に感心している。
また、職人の子がナマズを助けようともしており、震災復興の動きも感じさせる。
さんざん溜め込んでいた金銀を口や尻から吐き出さされる持丸(金持ち)や、その金銀に群がり拾う大工や左官などが描かれている。
『鯰に金銀を吐かされる持丸』(黄雀文庫蔵)は、震災で損害を被った金持ちと、復興で潤った建設業に従事する人々を対比して風刺したもの。
富の再分配による世直しへの期待も読み取れる。黒づくめの盗人の姿をしたナマズが高利貸しの盲人や金持ちたちを強いて、口や尻から金銀の貨幣を吐き出させている。
地震を起こして迷惑をかけたとして、背中に矢が刺さったままのナマズが潔く切腹すると、腹の中から小判がザクザクと出てくる『鯰の切腹』(黄雀文庫蔵)。
その小判を千両箱に詰めて、震災で被害を被った長者(金持ち)や武士、僧侶、俳諧師たちに差し出すナマズ。
彼らはいずれもこの千両箱を抱えており、千両箱を差し出したナマズに対していつしか怒りも鎮まり、殊勝な心がけだと褒めはじめる。
そうすると、左側に描かれる地震の犠牲者たちの恨みもいつしか晴れていく。
それを、ナマズを矢で射た鹿島神が、弓を手に雲の上から見守る。
地震による混乱が収まるなかで、この地震は「世直し」だったのかと思い起こされたのである。
というわけで、震災被害の様子を知らせるツールとしてはじまった鯰絵は、震災発災から復興段階に移るにつれ、社会の貧富の差や、震災で損をした人と得をした人をあぶり出し、やがては世直しを風刺するようなものになっていく。
江戸時代の町人のあいだにあった健全な風刺精神の発露を、鯰絵からは見ることができるのだ。