ゲリラ戦の行く末:命をとるか誇りをとるか
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このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけに同年12月からブログを始めて、それ以降、700日以上毎日ブログ更新してきた、しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。
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【 今日のトピック:太平洋戦争 】
ロシアによるウクライナ侵攻が、毎日ニュースになっています。
こうなっちゃうと、ロシアにとってはゲームオーバーだと思います。
ウクライナ国境近くにロシア軍を配備するまではよかったのですが、国境を超えてウクライナ領に軍を進めてしまったら、アウトです。
軍を進めた(進駐した)理由はいくらでも作り出せますが、「軍隊が国境を超えた」でアウトです。
80年前に世界中を敵に回した、ドイツや日本と同じです。
で、↓の動画を見ていたら、太平洋戦争で日本がゲリラ戦によって最後の最後まで米軍に抵抗したらどうなっていたか?ということに言及されていたので、少し考えてみました。
いろいろと本を読んで、少しは歴史について知識は仕入れているつもりですが、結局は素人なので、話半分に読んでいただければと思います。
昭和20年8月、日本には原子爆弾が投下されました。
その前から、米軍は、日本本土に対する無差別爆撃を繰り返していました。
東京大空襲や岡山大空襲などは、無差別爆撃の典型例です。
「無差別」というのは、兵士かどうか関係なく攻撃を加える、という意味です。
兵士であれば、死ぬことを覚悟していますし、なおかつ、お互いに、相手を攻撃しようとしているわけですから、兵士を攻撃するのは、まあ、OKなわけです。
攻撃しなければ自分が死んでしまうのが兵士同士なので、攻撃せざるを得ないのは理解できます。
ただ、兵士ではない民間人は、相手を攻撃する手段を持ち合わせていません。
そりゃあ、素手で殴ったり蹴ったりすることはできるでしょうが、武器は持っていません。
どんな時代でも、戦場の兵士は、何らかの形で武装していました。
古くは、「ヒッタイト」や「アッシリア」が鉄で武装したことで、青銅器しか持ち合わせていなかった外国軍を蹂躙しました。
こんな感じで、兵士は武装しており、攻撃力(=人間の殺傷力)が増強されているわけですから、兵士同士なら、「殺される前に殺さなきゃ」が成り立って、相手を殺すことが許容されるのです。
これに対し、武装していない人間は、攻撃力が増強されていません。したがって、武装した兵士が攻撃するのはフェアじゃありません。
だから、無差別爆撃はダメなんです。
無差別爆撃の最たる例が、原子爆弾です。原子爆弾は、言うまでもなく、爆撃する相手を選びません。爆心地からの距離に応じて、平等に爆撃を与えます。
8月6日と9日に原子爆弾が投下され、8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国に通知し、8月15日に玉音放送が流れます。
9月2日にアメリカ海軍の戦艦「ミズーリ」にて、日本の全権委員2名(重光葵及び梅津美治郎)が降伏文書にサインして、正式に日米戦争が終わりました。
太平洋戦争(日本でいうところの「大東亜戦争」)は、降伏文書にサインする形で終わりましたが、こういう終わり方を選択しないことも可能でした。
例えば、最後の1人になろうとも、降伏文書にサインしない、というやり方です。
つまり、日本は、最後の最後まで戦うのです。
戦争というのは、無差別爆撃を繰り返すだけでは勝てません。相手の領土を占領する必要があります。
だから、米軍は、日本が降伏しない場合、本土決戦が必要でした。
仮に、最後の最後まで戦うと決断した場合に何が起きるかというと、日本としては、何よりも優先して、天皇陛下を護衛しつつ、大本営(陸軍及び海軍)が日本軍を指揮し、米軍との戦闘を継続することになると思います。
日本が最後の最後まで戦う理由は、神話の時代から脈々と続いてきた皇統を守り、かつ、明治維新によって作り上げた政治体制を守ることですから、↑のような事態が予想されます。
もちろん、兵士だけでは足りませんから、民間人も全員武装し、米軍への攻撃を継続することになります。
というか、当時の日本政府はそれを考えていました。竹やりの訓練がなされていたことは有名ですが、これは、民間人に竹やりで武装させ、ゲリラ戦を仕掛けるという作戦です。
(日本政府がゲリラ戦を覚悟していたのも事情がありました。というのも、アメリカのルーズベルト大統領が「無条件降伏」を打ち出していたのです。「無条件降伏」を、文字通り受け止めれば、皇統の抹殺を意味します。神話の時代から続く皇統が抹殺されることは、当時の日本では(今の日本でも)、あまりにもショッキングな出来事ですから、戦争をやめるわけにはいかなかったのです。どうも、昭和天皇自ら、無条件降伏によって皇統が途絶えない可能性を知ったからこそ、降伏を決断できたようです。)
竹やりなんて武器は、あまりにも貧弱ですが、金属製の防具や武器なんて作れませんから、貧弱なのは重々承知の上で「竹やり」で武装する予定でした。
ただ、日本本土であれば、間違いなく、米軍よりは、(民間人も含めた)兵士の数が圧倒的に多いです。
アメリカ人全員が日本本土にやってくるわけではありませんからね。
第二次世界大戦当時の米軍全部の総兵力は約1635万人で、日本の人口は約7200万人だったようです。
もちろん、米軍全全員を日本に寄こすことはできませんから、7200万人全員が武装すれば、日本本土にやってきた米軍に負けることはありません。
芋やお米を育てながら食料を自給し、最後の最後までゲリラ戦を続ければ、日本が負けることはないでしょう。
日本本土へ爆撃できる米軍の爆撃機や戦闘機の数にも限界があります。
日本本土を、隅から隅まで全部焼け野原にできるだけの爆弾は、当時のアメリカにはありませんでした。原子爆弾も開発の途上でしたし。
そうなると、日本は、最後の最後まで抵抗することができたでしょう。
総人口7200万人のうち、2000万人程度が亡くなったかもしれません。いや、もっともっと多くの人が亡くなったかもしれません。
ベトナム戦争からアメリカが撤退したことを考えれば、こういったゲリラ戦を繰り広げれば、もしかしたら、日本から米軍が撤退する未来があったのかもしれません。
ただ、そのゲリラ戦で極限まで疲弊した日本の待ち受ける未来って、どんなものだったのでしょうか。
敗戦はせずとも、国力は限界まで使い果たしています。そこまでして皇統及び政治体制を維持することに、意味はあるのでしょうか。
ここまで国力を使い果たすと、ベトナムと同じように、共産勢力によって、結局、皇統も政治体制も守れなくなったかもしれません。
そうなると、米軍による本土決戦を乗り越え、極限まで疲弊した日本は、さらに、共産勢力による本土決戦をも乗り越えて初めて、皇統と政治体制を維持できることになります。
当時の時代背景を考えれば、こういった2度の危機が考えられます。
もちろん、満州や台湾、さらに北方領土や北海道まで放棄しなきゃいけなくなるかもしれません。
当時の大日本帝国の領土の一部を失い、人口の3分の1を失ってまで、皇統と政治体制を維持する必要があったのか。
そこを考えなきゃいけないような気がします。
「生きていればそれでいい」を認めるかどうか、「命」や「生」を、この世の最高の価値と考えるのか。そこが問われているような気がします
生きていれば、それでいいのか。
仮に、敗戦によって共産勢力に飲み込まれてしまったとすると、「生きていればそれでいい」とは言いづらいと思います。
共産勢力が敗北した後の時代を生きる僕らとしては、グロテスクで陰湿な共産圏の生活は想像しやすいです。
ただ、僕らは今、米軍という勢力に飲み込まれた社会を生きているのですが、これは一見、グロテスクではないように見えます。
しかし、米軍は、パスポートもなしに米軍基地に出入りできます。米軍基地には、日本の主権が及ばないからです。
そして、米軍兵士による犯罪に対しては、裁判を起こすこともできません。
これが、「グロテスク」とは言えないのでしょうか、というか、こういう事態に無関心であったり、報道されていない現状こそ「グロテスク」ではないのでしょうか。
そもそも、人間というのは、どうやら、ただただ生きていればいいのかというと、どうも違うらしいです。
ただただ生きているだけでいいのなら、せっかく退職して年金で悠々自適に過ごせる人たちが再び働き始めるなんてことありません。
人間というのは、どうも、生きるのに「張り合い」や「誇り」が必要らしいです。誇りこそ、人間が生きていられる理由な気がします。
だったら、「生きていれば、それでいい」というのは、間違っているのかもしれません。
人類は、これまで、とにかく生存を目指してきました。しかし、生存が脅かされなくなった時代が実現したところ、今まで生存のみを追い求めてきたことによって隠されていた「誇り」という、人間の本質が見えてきました。
「生きていれば、それでいい」じゃないようです。人間には、命よりも優先するべき価値として「誇り」があるような気がします。
自分に誇りが持てない人生は、とても残酷です。だからこそ、宗教戦争は熾烈を極めたんだと思います。相手の宗派を強要されるのは、自分の誇り(=信念・思想)を害されるから、命を捨ててでも、我慢ならなかったんだと思います。
もし、最後の最後までゲリラ戦を継続し、米軍を撤退させ、その後、さらにゲリラ戦を継続してソ連軍も撤退させ、その結果、皇統を守り、かつ、明治維新によって生まれた政治体制も守ることができたとしたら、誇りを守ることができたでしょうし、この一連の出来事が、更に大きな誇りとして刻まれたでしょう。
「太平洋戦争」なんて用語が日本で使われることもなく、「大東亜戦争」の名の下に、日本が、連合国を相手に独立を守った、という伝説が、この日本の歴史に新たに加わることになったと思います。
もちろん、それと引き換えに、想像を絶する数の人たちが死ぬことになります。僕のご先祖様が亡くなってしまって、僕はこの世界に生まれていないかもしれません。
それをよしとするのか。命よりも優先するべき「誇り」という価値を認めるのか、というのが問われている気がします。
僕は、命よりも優先するべき「誇り」を認めざるを得ないと思います。平時にはそんなのには考えも及びませんが、有事だと、そういった「誇り」があるような気がします。
ただただ生かされているのは、死ぬよりも地獄に思えるのです。
命か誇りか、というのは本当に究極の問いです。
ちなみに、日本は、敗戦によって、当時の「誇り」であった皇族をアメリカに消されました。
戦前は皇族としてカウントされていた人たちが皇族ではなくなりました。日本の伝統が奪われた形になります。
憲法も改正させられました。明治の偉人たちが作った大日本帝国憲法が、自国民の手ではなく、アメリカによって改正させられたのです。
それでもいい、と考えるのもアリなのかもしれません。すべてを受け入れる、なんて思想を抱くのも自由です。
でも、他国に侵略されると、思想の自由すら奪われかねません。「すべてを受け入れる」なんて思想を抱くことすら許されないかもしれません。
国境が陸続きとなっているヨーロッパでは、戦争が繰り返され、思想の自由すら守られず、自国の文化や伝統が破壊されるのを目の当たりにしてきました。
日本ではずっと、海によって国が守られてきましたが、海による防衛力は、時代が進むにつれてどんどん低下していっています。
現代では、インターネット空間が現実を侵食してきていますが、インターネット空間には海の防衛力はゼロで、弱肉強食のヨーロッパルールがそのまま適用されます。
日本では、これまでの歴史上、外国を受け入れても誇りを維持できたのかもしれませんが、これからもそれが続くとは限りません。
自分で国を守らなければ誇りが失われること。
誇りを失った人生はグロテスクで苦しいこと。
有事には、命よりも誇りを優先しなければいけないことを、正面から受け止めなければいけない局面にきているのかもしれません。
それではまた明日!・・・↓
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