#309 目指すビジョン ~最後に残された,たった1人が救われる世界~

僕の目指すビジョン(将来こんな世界になっていたらいいな)について今日は書いていこうと思います。

「ビジョン」って大事ですよね。時代は,誰かが作ってくれるものではなく,自分たちで作り上げていくものです。

いろんなビジネス書に書いてありますが,最近の潮流は,自分でビジョンを掲げて,無理やりそのビジョンを正解にすることです。

自分が目指す未来,生きていたい世界を夢見て,それを本気で実現し,「ほら,僕の言うことが正解だったでしょ」と後で得意げに話す。

本当は,その「後で」が来るまでの間,必死に努力し続けるわけですが(笑)。

自分が描いたビジョンを無理やり正解に持っていくことが求められているとすれば,僕も,夢見るビジョンが必要になってきます。

その僕にとっての「ビジョン」が,タイトルにもある「最後に残された,たった1人が救われる世界」です。この話は,「法とは何か」「法は何のために生まれたのか」という,めちゃくちゃ深い問題が絡んでいます。

この深い問いに対して,今のところ出した答えを説明する形で,僕のビジョンについてお伝えしたいと思います。

そもそも,「法」が生まれたのは古代ギリシア,それに続く古代ローマです。今から2500年前のことです。

法が生まれる前の世界はどんなものだったのでしょうか。この法が生まれる前の世界については,マルセスモースの『贈与論』で描かれています。

そもそも,人類(ホモサピエンス)は,厳しい自然環境で生き残るために,集団生活を営んできました。人類(ホモサピエンス)は,たった1人で自然環境に放り出されても生き残れない種です。地球上には,群れを作らず単独行動で生き残ることができている種がたくさんいますが,人類は,集団生活を営むことで生き残りを図ってきました。

そんな人類にとって,何かしらの集団に属することが,生き残りのためには必須条件でした。厳しい自然環境に1人で放り出されたら即,死が待ち受けているからです。

そんなわけで,あらゆる人類(今日まで命を繋げてきた個体)は,自分の遺伝子を後世に継承するべく,何かしらの集団に属してきました。

しかし,人類が生き残りを図るために形成していた集団を解体し,個人が個人として生きられるようになりました。この「集団解体」の技術が「法」なのです。

人類は,生き残るために集団生活を営んできましたが,その集団生活は非常にグロテスクでした。

あらゆる動物に当てはまることですが,すべての個体が生き残れるわけではありません。すべての個体が生き残れるだけの食糧がないからです。その結果,生存競争が起きます。そして,「生存競争」は,同じ種族の別個体群を滅ぼすことを意味します。

人類に置き換えれば,「生存競争」とは,自分の属する集団の生き残りを図って,他の集団を滅ぼすことを意味します。そして,最終的に生き残れる個体の数は,限られた食料で生き残れる数だけです。

その食料を争って,絶えず抗争が起きていました。集団同士でも抗争がありましたし,集団内部でも,限られた食料を争っていたでしょう。

勝ち負けを決める方法は集団ごとに異なったでしょうが,結局は,勝者が敗者を征服し,敗者は死に絶えます。こんな状態だと,人々は,生き残りを図るため,どの集団が一番強いのか,どの集団に所属すれば生き残れるか,そればかり考えている必要がありました。弱い集団に属していれば,それは即ち死を意味していたからです。

こんなグロテスクな生存競争から人類を解き放ったのが,古代ギリシアで発明された「法」でした。

法は,集団(徒党)を解体します。古代ギリシアに作成された演劇では,徒党を解体し,個人を守る構図がいくつも出てきます。

生き残るために集団(徒党)に与しなければならないという価値観を破壊し,徒党に与せずとも,自分の生命・身体・財産を守ることができる。

それが法の役割であり,法が成立した結果,徒党に組みしないと生き残れない,グロテスクな状態から脱却を図れるようになりました。

こういった「法」の成り立ちを初めて学んだのは,東京大学ロースクールで受けた木庭顕教授の授業でした。木庭先生の授業は,とにかくおもしろかった。「ソクラテスメソッド」なんて呼ばれたりもしますが,木庭先生の授業は,全編,対話形式で進められていました。あらかじめ出された題材(判例の事案)を予習してきて,その題材をもとに,対話形式で議論を進めていくのです。

僕はこの授業で初めて,法律の授業を面白いと思ったような気がします。ロースクール1年目のときに衝撃を受けて,2年目も受講しました。

2013年4月にロースクールに入学して2015年3月に卒業し,その年の司法試験に合格して2017年1月から弁護士として働き始めたのですが,ロースクールを卒業して以降,木庭先生の授業を思い出すこともありませんでした。

うつ病になって,改めて木庭先生の本『誰のために法は生まれた』に触れたとき,はっとしました。そして,感動で涙が溢れてきました。

集団(徒党)に与しない人を救うために法は生まれた,つまり,最後に残された,たった1人を救うために法が生まれたことを,この本は改めて僕に教えてくれたのです。

ロースクールの授業で,このことは既に学んでいたはずですが,5年の時を経て改めてこの教えに触れ,非常に感銘を受け,感動しました。

これほどまでに心を動かされたのは,僕の幼少期・少年期の過ごし方も関わってきます。

思い返すと,僕は幼少期から少年期,そして大人になるまでずっと,1人でいることが多かったです。たぶん,ひとりで過ごすことが好きだったのでしょう。

今は,「1人で過ごすことが好き」と自信を持って言えるのですが,最近までずっと(約30年間)そうは思えませんでした。

ひとりで過ごしている自分はさみしいやつだ,と思ってしまっていました。でも,自分で他の人に声をかける勇気が出ない。というか,自分から声をかけて友達を作ろうとする気持ちがそもそもよく理解できていませんでした。

他人に興味がなかったんです。興味を持とうとすらしなかったんです。どうしてなんでしょう(笑)。単純に,嫌われるのが怖くて声をかけなかっただけなんでしょうか。

それもあるんでしょうけど,「ひとりで過ごす自分はさみしいやつだ」「恥ずかしいやつだ」なんて感情が消えうせた今でも,他人に興味があまりありません。自分でつながりを広げようとなんて全然しないんです。僕は心底,1人で過ごすことが好きなようです。

ちょっと僕自身のダークな部分を書きすぎましたが,とはいえ,小さい頃,そしてある程度大きくなっても,僕は1人で過ごすことが多かった,というか,ほとんど1人でした。

そんな時僕は,「自分は友達がいなくてさみしいやつだ」とか「恥ずかしいやつだ」なんて思いにさいなまれていました。

そんな思いから救ってくれたのが,先ほど書いたような「法」の理念・成り立ちです。

法は,徒党に与せず最後に残された,たった1人を救うために生まれました。生きていくために,仕方なく妥協して集団に迎合しなくてもいいよ,と法は教えてくれているのです。

集団に属す必要はない。法のおかげで,僕ら人類は,集団に属することなく生きていくことができるようになったのです。だからこそ,「法」は人類にとって本当に大きな発明なんですが,僕にとっては,ずっと1人で過ごしてきた僕の生き方を肯定してくれているような気持ちが溢れてきて,うれしくて涙が止まらなかったのです。

集団に迎合しなくていい。自分1人で生きていていいのです。

もちろん,僕は両親ともに健在で,ずっと学費と生活費を援助してくれましたし,なおかつ,楽しい時間を過ごせる友人にも恵まれています。本当に感謝しています。だから,僕は1人で生きてきたわけではありません。支えがあって,生きてくることができました。それは間違いありません。

でも,「人間は1人じゃ生きていけないんだから」という大義名分のもと,何かしらの集団に迎合する必要はないのです。この大義名分は,法が生まれた2500年前からずっと,間違っているのです。

もちろん,法が機能せず,「力こそパワー」の世界は,歴史上何度も訪れました。ローマ帝国が崩壊に向かう頃のヨーロッパ諸国の状況は,完全に「力こそパワー」の世界です。「北斗の拳」の世界と言ってもいいでしょう。集団同士・集団内部で争いが絶えず,誰しもが,生き残りをかけて,自分の属する集団の勝ち負けを争っていました。

今の日本もそうです。法が機能していません。

最近,半沢直樹が流行しましたが,この半沢直樹だって,法が機能している場面を描いたものではありません。

半沢直樹は,悪徳政治家を倒す勧善懲悪ストーリーですが,これも結局,主人公の半沢直樹グループと,敵方の悪徳政治家グループが勝った負けたを繰り返しているだけで,法が機能していない「北斗の拳」の世界を描いているだけです。

どっちの集団が勝つか・負けるか,それだけです。

法が機能する世界を描きたいのであれば,主人公側と敵方で,メンバーが入れ替わったりするべきではありません。これだと,どっちのグループが勝つか・負けるかを予想して,勝った方の集団に属した方がいい,というような「北斗の拳」的な価値観が生きていることが如実に表現されてしまいます。

法が機能する世界は,そうじゃありません。長い物に巻かれなくても,たった1人のかけがえのない個人として,自由に生きていくことができるのです。

僕は,この法の成り立ちに忠実な弁護士として生きていきたいと思うようになりました。

最後に残された,たった1人を救う。こういった法の機能が担保されているからこそ,僕らは自由を謳歌できるのです。最後に残された,たった1人が救われないならば,僕らは,生き残るために何かしらの集団に迎合しなきゃいけなくなります。それは「北斗の拳」の世界です。力がすべての世界になってしまいます。

最後に残された,たった1人が救われる。

それが,自由な暮らしを謳歌するための,大事な大事な前提条件なんです。そして,その前提条件を確保しているのが,法の機能です。

「最後に残された,たった1人」を窮地に追い込む場面,つまり,法が機能していない場面で,法が機能するよう是正する。これが,僕の弁護士としての使命です。

抽象的な文章が続きましたが,ちょっと具体例を出します。

法的な紛争には,多くの場合「徒党」が潜んでいます。

例えば,夫が妻に対して離婚を請求している場合に,夫のバックに不倫相手の女性がついていて,夫と不倫相手が「徒党」を組んでいたり,相続事件でいえば,3人の相続人のうち2人がタッグを組んでもう1人の相続人に相続放棄を迫ったり。

こんなケースで,徒党を組んだ側が常に勝ってしまっては,僕らは安心して暮らせません。自分の権利を守るためには徒党に与することが必要になってくるからです。

常に周囲の顔を伺い,状況を読み取って,誰が一番強いのか,誰に迎合したら自分が最も得をするのか考えておかなきゃいけなくなります。

そんな世界は間違っています。周囲の顔をうかがわなくても,そして,誰が一番強いのか・誰に迎合したら得をするのか,そんなこと考えなくても,自分の権利が守られていなきゃいけません。それが法の目的・機能・役割なんです。

誰に迎合するか考えなくても安心して暮らせる。それが,僕が実現したい世界です。そのために「最後に残された,たった1人」を救いたい。

ちょっとここで付け加えておくと,ここまで書いたような僕の目指すビジョンは,「コミュニティ」と矛盾しません。僕のビジョンは,個人主義的でコミュニティを排斥するようにも思えますが,むしろ逆です。

僕はアドラー心理学も信奉していますが,アドラーのいうように,僕らが幸せになるには「共同体感覚」が必要です。

アドラーが説明しているように,僕らは結局,人間関係(コミュニティ)の中でしか,幸せを感じることはできないのです。

ただ,「共同体感覚」を感じられるコミュニティは,「生き残るためにやむなく迎合しているコミュニティ」ではありません。その対極です。

法が健全に機能し,集団に迎合せずとも生き残ることができる世界において,それでも自分の幸せのために所属するコミュニティこそ,幸せの正体=共同体感覚を得ることができるものです。コミュニティ全員のことを心から信頼でき,その構成員のために貢献できると思えて初めて,「共同体感覚」に近づくことができます。

僕が目指す「最後に残された,たった1人が救われる」世界は,あらゆるコミュニティが解体されるような個人主義ではありません。むしろ,「最後に残された,たった1人が救われる」ことが担保されるからこそ,純粋に幸せを求めてコミュニティに属せるわけで,人々が幸せのために所属する「共同体」と両立します。なおかつ,「生き残るためにやむなく所属するコミュニティ」を駆逐するので,「コミュニティ」に所属することで得られる人々の幸せを実現することに繋がると思っています。

たった1人でも生き残ることができる,という法の機能が担保された世界で初めて,僕らは幸せ=共同体感覚を抱くことができるのです。

僕の目指す,「最後に残された,たった1人が救われる」世界は,人々が幸せを感じる前提条件でもあるのです。

まとめると,

【目指すビジョン】

最後に残された,たった1人が救われる世界

【目指す理由】

・生き残るために妥協して集団に迎合する必要がなくなり,安心して暮らせる(誰が強いか,どの集団に属するべきか考えなくて済む)

・生き残るためにやむなく迎合する集団が駆逐され幸せのために必要なコミュニティだけが残る結果,人々の幸せが実現される

僕の目指す,「最後に残された,たった1人が救われる」世界は,こういった安心と幸せにつながります。

だから僕は,「最後に残された,たった1人が救われる」世界を目指したいのです。

【今日の経験・考えたこと(うつ病発症454日目)】

・今日できた仕事・勉強

さて,今日で休職開始から454日目:1年2か月と26日目ですが(うつ病発症日から今日までずっと休職しています),今日は出勤しました。午前9時~午後6時(定時)まで滞在する予定です。今日は,『憲法第九条』を読んでいました。

この本は,憲法学者である著者が,徹底した非武装平和主義の基づき,憲法第九条について解説したものです。僕の思想と真っ向から対立する内容ですが,読んでいてつまらなくはありません。

現行政府解釈に無理があることが指摘されていますが,これはおっしゃる通りでしょう。憲法9条は,成立した経緯に照らして,完全な非武装をアメリカが日本に求めたものです。当時の日本も厭戦気分が広がっており,これを受け入れたのも納得できます。

ただ,1950年に朝鮮戦争が勃発し,米ソ冷戦構造が顕在化しました。その直前から,マッカーサーは憲法第九条に対する見解を変更し,日本は再軍備可能と言い始めたのです。当時の日本はアメリカに占領されていましたから,アメリカの意向に逆らうことができるはずもなく,なおかつ,憲法改正発議できるだけの議席数も確保できていなかったので,解釈改憲する形で再軍備するほかなかったのです。

1950年当時の日本は,55年体制の前(自民党結社前)で,国会は,吉田茂の自由党と鳩山一郎の民主党に分かれており,残り3分の1議席を,ソ連の手先である日本社会党が握っていました。

ソ連の拡大が目前に迫っている中で,憲法9条の改正を悠長に待っていたら,日本がソ連の手に落ちていたかもしれません。日本には,いまだに米軍基地がたくさんあり,軍事的にはアメリカの占領状態が続いているのも同然ですが,それでも,ソ連の手に落ちるよりはマシだったでしょう。

解釈改憲に頼るほかなかった,政府の苦しみは理解できます。ただ,その解釈改憲が現在まで続いているのは絶対におかしい。憲法9条の改正が実現できていないのは,ひとえに,日本国民に原因があります。非武装平和主義を唱えるのも,思想の自由・表現の自由があるから別に止めはしませんが,2014年にクリミア半島を軍事占領してしまうような隣国がいるのに,非武装でいることは怖くて仕方がないはずです。

軍拡が緊張を広げて戦争に突き進んでしまう,という意見も書かれていましたが,僕はそうは思いません。軍事力は,行使するために存在するわけじゃありません。第一義的には,交渉材料です。軍備があるからこそ,強気の交渉ができて,戦争を回避できるのです。

丸腰で交渉していても,戦争は回避できません。丸腰で戦争を回避するには,相手の要求を鵜呑みにするしかなくなってしまいます。だって,こちらには対抗手段がないからです。経済制裁には限界があります。相手の国が,日本に対してどれだけ経済的に依存しているか,国ごとに違うからです。

既に自衛隊が組織されている中でやるべきは,憲法9条を改正して,自衛のための戦力保持を認めることでしょう。「自衛のための戦力」=自衛隊を憲法に明記してほしいです。

・仕事・勉強以外に今日やったこと

特にありません。

【今日のうつ病】(うつ病経過まとめ:こちら

今日までに経過した期間↓

・うつ病発症(2019年7月10日~):454日(1年2か月と26日)

・実家療養後の1人暮らし(2019年9月27日~):375日(1年と9日)

・午前中の散歩(2019年11月7日~):334日(10か月と29日)

・毎日ブログ(2019年12月3日~):308日(10か月と3日)

・出勤練習(2020年3月30日~):190日(6か月と6日)

さて,そんな今日のSleepCycleを見ると(睡眠記録アプリ「SleepCycle」についてはこちら),昨日午後11時17分に布団に入り,少し寝つきが悪かった記憶がありますが,ほどなく寝つけました。昨日に引き続き,寝つきは良いです。昨日は朝8時までぐっすり眠れましたが,今日は,6時前に目が覚めてしまいました。

どうやら,枕が高すぎるせいで首と肩が痛くなり,目を覚ましてしまったみたいです。睡眠時間も6時間30分ほどで短く,SleepCycle独自の睡眠品質も67%/100%で低いです。

最近睡眠の質が悪いので,今日も無理せず過ごします。高すぎる枕は,中身を自分で減らすことができるので,朝起きてすぐに中身を減らしました。これで今日から改善されるはずです。

今日も眠りが改善されなかったら,それはそれで仕方ありませんが(笑)。

今日もブログ書けてよかった!

それではまた明日!→こちら

昨日のブログ→こちら

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