『悪は存在しない』を観た
まだヒリヒリしている。
映画館を出て、向かいのドトールに駆け込んで一通りプログラムを読んで、
上映中に来ていたLINEとインスタの連絡をいくつか返して、それでもまだヒリヒリが収まらない。
むしろ、時間が経つごとにジンジンと痛い。
『悪は存在しない』
そう、悪は存在しないのだ。完璧なまでに。
とりあえず、観終わって感じたことを吐き出さないと日常生活がままならなさそうなので、とにかく書く。
(以下、映画の詳しい内容を含みます)
『悪人』は存在しない
主人公の安村巧は、長野県・水挽町の「開拓3世」だ。
「便利屋」として住民の信頼が厚い巧は、ひとり娘の花と2人で森の中で暮らしている。
(物語の中では語られないが、妻であり花の母親だった女性は亡くなったようだ)
ある日、水挽町を管理する駿河(巧は彼を先生と呼ぶ)から、東京の芸能事務所が計画するグランピング場の話が持ち込まれる。
どうも、コロナ禍で苦境に立たされた事務所は、コロナの補助金を目当てにグランピング事業に参入しようとしているらしい。
突然集められた住民たち。地域の大切な湧き水を汚しかねないずさんな計画に、住民説明会は荒れる。東京からやってきた高橋と黛は圧倒されるが、自分たちもグランピング場についてはずぶの素人である。「最終的には社長が決める」「コンサルに相談しないと」という高橋に、住民たちは怒りをあらわにする。
そんななかで、巧は淡々としている。水挽町は、かつて土地を持たない開拓民たちにあてがわれた場所だった。「よそ者を受け入れてここは栄えてきた」と巧は言う。
美しい木々、冬の信州のきりりと冷えた空気、そこにある自然を当たり前のものとして生きる巧と花の親子。そんな映像が続いた後、住民説明会を境に、東京側の事情も描かれる。
芸能事務所とは言っても、雑居ビルの一室のようなオフィス。若くて声が大きく、大股を広げて煙草を吸う社長。もう会社には後がない。補助金の期限までに、グランピング場の建設を開始しなくてはならない。
グランピングのコンサルタントである堀口が、車の中からWeb会議に参加している。どこか地方に出張しているのだろう。「今回の住民説明会は大成功だ、自治体に住民と対話しているとアピールできる、住民たちのガス抜きにもなる」「とにかく伸びている業界。今始めないと、ロケットスタートが肝心」と言う。
社長の命で酒を持って木挽町へ向かう高橋と黛。「もう辞めてしまえよ」と高橋は黛に言う。高橋自身はマッチングアプリの通知を黛に見られた恥ずかしさもあり、テンション高く「もう俺がグランピング場の管理人になってもいい」と口走る。
介護職だった黛は相手の気持ちを察するのがうまく、住民説明会でも自分たちの甘さをすぐに謝る。度量があり、柔軟だ。介護福祉士の仕事で鍛えられたものなんだろう。住民説明会で移住の経緯を話した峯村のうどんを食べて、「すごくおいしかったです」と言う。巧の湧き水汲みを手伝うとき、黛はひしゃくからすくって水を飲む。
芸能人の付き人だった高橋は頭より先に身体が動くタイプで、どこかで聞いたようなセリフばかりが上滑りする。でも、どこか憎めない。うどん屋では「身体があったまりました」と言って、峯村に「それ、味の話じゃないですよね」と睨まれたシーンでは観客からも笑いが起こっていた。
『悪人』は、ここにはいない。『悪』は存在しない。
都会と田舎、上流と下流
都会の人間と田舎の人間は二元対立として語られることが多い。そして、多くの物語において都会の人間はいつも少し悪者だ。土地のことを知らない都会の人間によって自然が破壊されることが、経験則的に多いからだろう。
しかし、この物語における「都会の人間」にも、一概に責めたてるわけにもいかない事情がある。
それがこの映画の「他人事ではない」感じをより一層強める。
そうなのだ。悪役にもいつも事情がある。理由がある。
私は思わず高橋と黛に感情移入したくなる。
やりたくてやっているわけじゃない。だって、仕事なんだもん。
ただ同時に、私たちの目の前には、この物語を貫く揺るぎない事実が示される。
先生(駿河)は住民説明会の席で言う。
「水は上から下に流れる」
「上流にいるものには、下流にいるもののことを考える義務がある」
都会の人間にはピンとこない感覚だが、木挽町の住人はそれを知っている。
水の流れには上流と下流があり、それが目に見える。だからわかる。
何十年かの町の歴史のなかでは、水の流れが汚されたことや、枯れそうになったこともあっただろう。人々はそれが原因で諍いを起こしたかもしれない。
そういう時間の流れのなかで、住人たちはそれを学んできたし、最近移住してきたばかりの峯村夫妻にもそれは伝えられている。
そして、上流から下流に何か汚れたものが流れるとき、最も清らかなもの、やさしいもの、柔軟なもの、幼いものが傷つく。それは、直接因果関係がわかる形ではない。ただ、巡り巡ってそうなるのだ。
最も清らかなもの、やさしいもの、柔軟なもの、幼いもの。それが水挽町の湧き水であり、介護職で一度は壊れかけた黛の手のひらであり、花の存在そのものなのだ。
感想
とにかく、この映画を観た人と話したい。
観る前と観た後で、私のなかの何かが変わった気がする。変わってしまった気がする。ガラリと色が変わってしまうとか、メタモルフォーゼ的な変容ではなく、コンパスの針が数度ずれるような、そういう変化だ。
でもそれが何かわからない。だから、誰かと話してそれを確かめてみたい。
でも、何がどれくらい、どんな方向に変わったのか知ることも少し怖い。
それでも、誰かと話したい。