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燕に降り立ったフェニックス 第1号!   ~ それは和釘 (わくぎ) 1680年頃

皆さん、こんにちは!ラッキーウッドの小林です。

今回は、新潟平野の田んぼのど真ん中に、世界有数の金属加工のメッカが出来た、その謎にせまる! の第2弾です。

さて、新潟平野の中央、燕三条地域は、度重なる水害に悩まされ、せっかく育った稲が刈入れ前に水没するため、それを船を出して刈っていました。
広い土地と豊かな川がありながら、農家は常に貧しかったのです。

日本は全国的にそのような水害多発地域が多く、治水を制すものは国を制すと、名立たる武将や殿様は、まずは治水対策を行うことが最優先課題でした。が、
この燕三条地域、一旦大きな水害が発生すれば、新潟県全体にかかわるような規模となります。そんな広大な被害地域は、日本広しといえども、ここが一番だったと思われます。

それでも、江戸時代の初期から中期にかかるまで、燕は農業だけでがんばっていたらしく、様々な苦労や工夫、戦いの跡が残されています。
中でも・・
当時の燕の米作に対し、次の言葉が残されています。

鳥またぎ米」 → 鳥も食べずに、またいで行く米
三年一作」  → 3年に一度しか、米の収穫に成功しない

どうですか、涙が出ますね。

それを見かねた、当時の領主が、三条さんに後れること約10年、仙台等から「和釘」の技術を招へいし、農家におぼえさせたようです。(諸説あり)

和釘とは、現在でも宮大工さんたちが使用している、写真のように四角い「くさび型」のもので、様々な種類があります。「子は鎹 (かすがい) 」なんて落語に良く出てくる言葉がありますが、「鎹=かすがい」も和釘のひとつで、コの字型をしていて、柱と柱を接合する時に使います。

昔は日本で出土した「砂鉄」を原料とし、ほぼ不純物のない「純鉄」だったと思われます。
ですので、ぶつけると、キーンという銅よりも硬めの、とてもキレイな音が出ます。今は、鉄は再生を繰り返し、不純物が多くなっているので、鈍い音がします。純鉄をきちんと鍛造する=「叩いてきたえる」と、錆にも非常に強いものが出来ると言われています。

何故、和釘?
これは、燕三条の様々な土地の利や人の要素が、ひとつひとつでは大したことなく目立たないけれど、それが重なり合ったとき、最高の条件となって、この産業が降り立ったと言われています。

それらの条件
①水路 → 悪魔のような川は、実は交通の要所!
      北前船が、三条の五十嵐川下流まで入って来れました。
      釘や金属製品は重たいので、陸路より圧倒的に水路!が有利
      でした。

②材料 → 「砂鉄」の江戸時代の最大の産地は出雲。そこから北前船で。
 技術   さらに、「八十里越え」と呼ばれる街道から「砂鉄」は常に
      入りました。あの、会津へ抜ける有名なルートです。
      福島や山形そして仙台は、すでに鍛冶業で栄えていて、
      大先輩の地域から、豊富な砂鉄材がもたらされたのです。
      また同時に、技術も教わったものと思われるのです。

      何故、ライバルとなる地域がそのように力を?
      それは、福島・山形の山側は、新潟の方が水路や海が近く、
      そこから出荷したり、大事な「塩」と交換していたのです。
      八十里超えは日本のシルクロード、「塩街道」だったのです!

      そして、新潟県人の多くが、昔から鍛冶業の先輩地域へ弟子入
      りしていたと思います。新潟では食えなかったからです。
      その人たちを、今度は呼び戻したのではないかと思うのです。

③燃料 → 三条の山側、下田 (しただ) 地方の豊富な森林から、大量の木炭
      が生産され、常に供給されました。

そのように環境が整い、領主のすすめ、先輩地域との交流、特に三条の牽引もあって、徐々に副業として技術を身に着ける農家が増えていきます。

そして、ちょうどその頃、江戸の町はどんどん拡大し、地震も多くあったようで、一旦火が出ると大火になりやすく、復興時には大量の和釘が必要となっていました。

そのお陰もあって、 (というと悲しいですが)
1680年頃には「燕和釘鍛冶1000人」と呼ばれ、なんと、日本全国で 2番目に大きな産地になっていたのです!

これは、江戸の復興のあまりの量の多さと納期の短さに、先輩地域だけでは対応困難だったため、燕にも仕事が回って来たのではないかと思われます。
発注に大きな波があり、一時は良くてもまた下降したりして、産地の形成が困難だったと思われますが、
そこは「副業」と「三年一作」という状態が、逆に緊急事態に対応できる、柔軟な生産キャパでありえたのではないかと考えられます。

でも、いつのまにか、副業が主力産業に化けていました!
最終的には、住民の8割がその和釘産業に携わっていたそうです。

まさに Vの字回復 を果たし、同時に 産地化 も成し遂げていたのです。

この地域の持つ、「打たれ強さ」と「言われなくても良いものを作る職人気質」が、この頃すでに花開き、証明されていました‥(涙)

あの、2025年大河「べらぼう」も、江戸の大火のシーンから始まりましたが、あの復興時には「燕釘」が使われていたかも知れませんね。

しかしその頃、
三条さんはさらに技術を修練・体得し、「打ち刃物」や「大工道具」に産業を徐々に進化させて行きました。
これは、「三条商人」という、冬でも大雪の山道を「わらじ」と「かんじき(雪の上を歩くための補助具)」で、何十キロの荷物をしょって八十里超えをする日本最強の商人たちが、直接他県のユーザーに三条製品を届け、その声を聴き、三条に持ち帰り、製品をまた使いやすいように改良してお届けするという、自社オリジナル商品開発とプロデュースまで、当時から行っていたのです。

その傍らで、燕は時代の流行に救われ、それに応えるのに必死でした。
時代の変化により、その差が後で大きな影響を及ぼします。

燕に降りかかる 次の悲劇 が、音もなく、刻々と近づいていることを、
その時は誰も知る由がありませんでした・・

(新潟平野の田んぼのど真ん中に、世界有数の金属加工のメッカが出来た、その謎にせまる!第3弾に続く)


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