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読了 1. 太宰治『葉』

 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

太宰治『葉』

太宰作品がめちゃくちゃ好きです。
俺のバイブルは『人間失格』なのですが、
短編で好きなのは芥川龍之介の『蜜柑』か、この『葉』になる。

こんなに惹かれる書き出しがこの世に存在するか?
いきなり「死のうと思っていた。」から始まり、五文後には「夏まで生きていようと思った。」に着地するのがなんというか、
テキストとしての表現は為されてないけど、名前も性別も全く明記されていない主人公のバックグラウンドを想起させてくる

読んでもらったら解ると思うけど、太宰作品にははっきり言って意味不明なタイミングで謎の詩や名言(?)や台詞が挿入されるんです

けど、その他のシーンにおける情景描写が何とも言えない抽象と具体の間を丁度よく縫うような美しさがあって、
一読するともはや散文に近いような雰囲気を湛えていながらも情景は頭にはっきり浮かぶような

母屋の御祝言の騒ぎも、もうひっそり静かになっていたようでございましたし、なんでも真夜中ちかくでございましたでしょう。秋風がさらさらと雨戸を撫なでて、軒の風鈴がその度毎に弱弱しく鳴って居りましたのも幽かすかに思いだすことができるのでございます。

太宰治『葉』

九月初め頃の午前一時、夏にぶら下げた風鈴がまだ釣ってあって、まだ昼間は暑くて、夜も日中熱されたせいで少し蒸しっとする軒先に、ちょっと涼しい風が吹いて心地よい

みたいな情景が浮かんだ俺は

「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻は焚たかぬもの。不憫の故にな」

太宰治『葉』

哀蚊、ね
考えたことも無かったかもしれない

しかし、誰かひとりが考える。なぜ、日本橋をえらぶのか。こんな、人通りのすくないほの暗い橋のうえで、花を売ろうなどというのは、よくないことなのに、――なぜ?
 その不審には、簡単ではあるが頗るロマンチックな解答を与え得るのである。それは、彼女の親たちの日本橋に対する幻影に由来している。ニホンでいちばんにぎやかな良い橋はニホンバシにちがいない、という彼等のおだやかな判断に他ならぬ。

太宰治『葉』

成る程、
なるほど。

あんまり書きすぎても面白くないから書きたくないんやけど、本当に好きな一節が多すぎて堪らない

ある種この『葉』も自分の人生のバイブル的な側面があって、
ぼんやり世界に絶望しながらも希望が捨てきれなくて狭間で藻掻く感じが、
烏滸がましいかもしれないけども共感してしまう

やっぱり幾ら寛容(自分で言うのもおかしいけど)でも許せない部分は確実にあって、例えば十人居たらそのうち二人くらいはその逆鱗を見事に探し当てて執拗に突いてくる
そしてそういう人間は殆どの場合外部要因的にどうしても切れない人間関係の縁で繋がれていて、その人間関係を維持せざるを得ないがために自分が人柱になるというか、我慢を強いられる状況ってのはかなり頻繁にあるんだよな

恐らくその苦悩は、太宰が抱えてたものとは大きさや対象が(比較できるものではないかもしれないが)多分違ってて、でもそれでもさ、

音楽とか他の形態の作品と一緒で、リスナーや読者が勝手に共感していいものやと思うんだー

だからこれからも勝手にシンパシー感じて、鬱感じた時に勝手に救われて生きるんだろう

なんか暗い胸中を吐き出してしまったけど、結局俺の人生訓はこの小説の最後にも書いてあるので
それを引用して締めるとしよう、ではまた^_^

どうにか、なる。

太宰治『葉』

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