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ローテンションでとぼとぼ歩く人生ってのも、アリじゃないの。精神疾患との付き合い方とかについて
鬱状態の人は、
幼少期~学生時代に鬱が染み付いた人と、
社会に出て会社なんかで鬱になった人の
2種類がいると思う。
という考えを見かけた。
鬱病当事者の投稿。
で、そう考えた場合に、
前者の場合は鬱すらもアイデンティティの一部になってしまっていて、周りから異常と言われても判然としないし、たとえ自分の親を変だと言われても、一定の恩を感じていたりして簡単に割り切れない
と。
僕はこのまえこんなのを書いたくらいだから、その気持ちが分からなくもない↓
暴力振るわれても、人格否定されても、親子ってのは不思議なものだ。
簡単に言えば『血』ということになるんだろうが、好き嫌いだけじゃない厄介なつながりがある。多感なころの長い時間を共にした、自分より立場が上の人間なわけだからね。
なかには、自分の親を即きっぱり他人・邪魔モノ・悪者として割り切って吹っ切って清々しい気分で生きられない人も居ると思う。
そういう心境を受けて僕がぱっと浮かんだ考えをここに書く。
(コメント欄に書く長さじゃなかったので。)
子供の頃に染み付いた色々なものって、他人からどう言われてもこっちとしては吹っ切るのが難しかったりするよね。
かくいう僕、
もともと小さい頃から明るく人懐っこい少年ではあって。間違いなくその後どんどん家庭環境のストレスに蝕まれていったタイプだけど、
たくさん人間関係を経験を通り越してきたいまでも、まだ人前で内心ビクビクしたり、身体の動きが固くなったりします。
人と接するのは好きなのにね。
人を避けて生きてきたわけでもない。
むしろ人の輪の中で生きてきたのにだ。
自分の希望とは裏腹に、神経が反射しちゃうんだよな。
いまだとYoutubeでも、家庭環境で病んで自傷行為経験してそれでもがんばって生きてるような人の動画をたまに見かける。
そういう人の話を聴いてても、
やっぱり数学の問題の答えみたいにはいかないものだなと思う。
配信者として一応楽しく生活していても、脳がたぶん病んでて、部屋がゴミ屋敷とかね。
それだけ、幼少期や青年期の多感なタイミングに染みつけられたものって大きいんだと思うよ。
それを吹っ切るって、根本的には自分の内面と向き合ってケリをつけることになるから歯がゆいんだと思う。
世間一般の社会人が、往々にして現実逃避のために酒飲むのやめられないみたいなもんだよきっと。
会社とか経済とかのどうにもならないことを愚痴りあってさ。
それが現実じゃん。
嫌な現実あるたびに「宇宙と調和」「パラレルシフトだ」とか言ってる人たちも、ある種そうなんだよ。
アメリカで流行ってるあの薬だってそうだよ。
ケリつけることが難しくて、完全に諦めて逃げた人たち。
自分の内面とケリつけるって大変。
閉じこもる、逃げる、
現状維持、都合のいい解釈、その場しのぎは
珍しいことではない。
それでもまぁ、生きたいとか、
別に死にたいわけじゃないとかという気持ちがあるなら、
テンション低くてもいいし、何年かかってもいいから
なんとなく生きながら向き合ってみる価値はあるかなと思う。
道中しんどくてたまらないだろうけど、
意外と、受け止めてくれる人とか、
同じような境遇の人と出会えることはあるだろうからね。
なによりも、自分にケリつけないと感じられない充実感は絶対あるから。
僕は、後ろ向きなときも元気がないときも、他人からボロクソ言われるときも、あっていいと思うね。
どうせ他人は自分の人生の責任とってくれないんだから。
人生ハッピーが全てじゃない。
自分自身でゆっくり向き合ってケリつければいいんじゃないか。
味方や仲間と接しながら。
多分その時になってようやく「あぁ、家の親おかしかったわ。最悪だったわ」と吹っ切れるんだと思う。
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