本当のスピリチュアリズム

昨今、スピリチュアルというのは宇宙人だとか、霊だとか、地に足のついてないものであると言う認識がある。これは少し誤解がある。確かに地に足のついてないことを語ることはスピリチュアル的だ。しかしそれだけがスピリチュアルではない。なぜならば、語ると言うこととスピリチュアルに語ると言うことは等しいからだ。つまり地に足のついてないことを語ることもスピリチュアルに語るということである。
ここで一回概念について語ろう。下位概念だけでその上位概念を説明することは不可能である。
これを簡単に教科書的に言えば発展は基礎を使わずには説明できないと言うことだ。微積分は四則演算を理解せずには使えないし、完了形を理解するためには現在形のA is Bを理解しないといけないし、電気抵抗を理解するためには電場や電位といった基礎的な概念の理解が求められる。
上と下と言っているが基礎が上位概念で、発展が下位概念である。そして上位概念は多数の下位概念を包容している大きい概念だ。つまり微積分や連立方程式など多数の発展的概念、下位概念というのは、四則演算と言う基礎的概念、上位概念に包み込まれている。 では概念をどこまでも大きくしていけばどうなる? 答えは存在という概念になる。
存在の上、存在より基礎的な概念はない。なぜならば存在の上、外側なら非存在もいることになる。そして非存在は文字通り存在しない。故に外側はないのだ。某詩人元環境大臣みたいなことをはなしているが、これは正しい。A is Aの論理式は正しいのだ。そして哲学とはこの最大の概念、存在を分析することだ。20世紀の哲学者ハイデガーの言葉を借りるなら、哲学をつきつめるとは、他の諸学の基礎付けを行うことだ。
 ここで本題に戻るがスピリチュアルとは哲学なのだ。両方とも存在について"語る"。存在について語るならばそこに内在、下位的、発展的に存在する全ての概念、存在者、存在しているものについて語るということだ。言語的に"語る"の主語はなんでもいい。なんでもいいならば、全ての存在になる。 すなわち存在の概念である。故に"語る"とは哲学的なのだ。そして哲学とはスピリチュアルなので語るとはスピリチュアル的なのだ。そしてわざわざスピリチュアル的に語ると言う必要はない。
なぜならA is Aを話す必要はないからだ。
A的Aになる。それでは某詩人元環境大臣になるな笑。もう一度言うスピリチュアル的に"語る"とは"語る"と等しい。
 哲学は存在を分析しようとしている。故にスピリチュアルも存在を理解しようとする。"理解"も先程と"語る"と同じようだ。だから本当のスピリチュアリズムとは"理解する"ことに向かうこと、すなわち"理解しようとすること"そのものなのだ。

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