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介護と挫折と羽生くん
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羽生結弦GIFTを東京ドームで観ることが叶わなかった理由は私の心に迷いがあったからだと今も思っているのです。
ただの日記です。時系列前後してたいへん読みづらくなっていますが、残すなら今だと思ったものですから。
救急搬送と羽生くんのTV放送の夜
2024年GW後半、誤嚥性肺炎で母は入院した。
羽生結弦RE_PRAY舞台裏のTV放送中、救急の待合にいた。もちろん録画はセットしてきたものの、リアルタイムでみたい。ライブで見てるわけじゃないのに、この時間彼を愛する人たちがこぞってTVの前に集っている姿を思い浮かべていた。
処置を待つ間、不安な気持ちをかき消してくれるXへの声はありがたかった。
スケート靴のブレードをマイクと間違えた?って。なんで?徹子さんのペンライトと素早くマイクをすり替えた人だ。なぜだ?
想像膨らんで、ただ可愛いと思ったり、鬼トレーニングを幕間に挟む彼を想像したりしていた。
1年半前、たった14日間でストップしてしまったブログがある。読み返したくないので開きもしなかったし、読まれた数などしれている。挫折の記録のようなものだ。やっと今は大切な時間だったのではないかと思えるようになった。残しておいた方がいいのではないかと思うようになった。
脳梗塞あの日から4カ月(2022年夏の終わりに)
今から思えば母の様子がおかしいと皆(私、兄、義姉)が感じたのは2022年8月27日土曜日の事だ。我家に泊めようと迎えに行ったら母が立てなくなっていて義姉が四苦八苦しているところだった。母は整形外科的には具合の悪いところをいくつも抱えていて、首であるとか、肩であるとか、腰などが痛いと自力で立てなかったり、ズドーンと精神的に落ち込むことが度々あった。今回もそのパターンだと思って落ち着いてきた母を車に乗せて我家へ連れて帰ったんだ。
車中では静かだったけれど、夕食の炊き込みご飯と天ぷらを美味しいと言って食べてくれた。
翌日は歩行器を押して家の車庫ぐらいまでは歩いたし、収穫したイチジクも美味しいと言って食べていた。
ただ肩の辺りが具合が悪いと何度も言っていて、入浴すれば楽になるかもしれないし介助してお風呂に入れた。そして明日月曜日は朝一番に整形外科に連れて行こうと思った。
はたして肩を骨折していた。そしてコルセット処置されての帰り道辺りから母の様子がほんとうにおかしくなっていく。何が気持ち悪いのかしきりに着衣を脱ごうとするので医者の注意事項も無視してコルセットを外してみたけれど、やっぱり何かがおかしい。
その頃には右手が使えなくなっていたけれど肩の骨折のせいだとまだ思っていたし、でもまたやっぱり何かがおかしいと思ったのは夕食を食べるのに利き手でないとはいえ左手でスプーンを使って口に運べないこと。不安な気持ちしかない私はその様子をスマホで動画に残した。ケアマネージャーが手配してくれた物忘れ外来の診察日は2日後だ。何かあったら救急車だねと、泊まり込むといった兄に任せて帰路についた。
いつまでも残る後悔はこの2日間なのだ。
なぜその時に救急へ連れて行かなかったのか。絶対違っていただろう!今の母の状態と。疑っていたのは脳梗塞だ。
戻って2日後の診察日、診察には時間を要した。まずCTではわからないと言われた。絶対おかしいのにわからないなんて。役に立ったのはスマホの動画。見てすぐにMR撮影にねじ込んでくれた先生。
診断は脳梗塞。即入院。
でも母の壊れてしまった脳は戻らなかったんだ。右手右足の動きと、言語を判断すること、うまく喋る機能が戻ってくれなかったんだ。
泣いて泣いて泣いて!
後悔後悔後悔!
それから4カ月、在宅介護を決めた。母の介護が自分にできるのか、いろんなことを葛藤した日々が過ぎて、私は万全の準備をしてクリスマスの日退院する母の到着を待っていた。
東京ドーム全滅(2023年2月26日公演)
羽生くんは最強だった。2023年2月26日あの東京ドームを一人で満杯にする。(もう決定だ)
今日18:00先行販売チケットの当落通知が届く時間までソワソワしながら、でもまだわずかな望みを持っていたのだけれど(だって50,000人だよ)落選・・・(後日談実際には35000席)
悲しいのだけれど私たちの推しはすごいって思うとうれしくもある。
複雑・・・ちょっと傷心。
ぶら下げる人参が無い。ドームまで出かけられるかもわからない状況なのに目の前にぶら下げておきたかった。
しかし東京ドーム落選の落胆から、紅白歌合戦ゲスト審査員に決定!で復活したその日の私。今日も生きる糧!羽生くんが尊い。
さて今日は母のベッドと車椅子を搬入してもらい、スロープを数か所セッティングして準備完了した。
母はこの部屋が気に入ってくれるだろうか。
ここが何処だか解ってくれるだろうか。どっかで聞いたフレーズだな。
ここまでの準備だけでかなりな労力気力使って来たなあと思う。まだ始まってもいないのに疲れ気味だ。
やっぱり今日はもう休もう。
明日もいつものように4時半に起床するはず。翌朝雪に埋もれてしまいそうな夜だ。
本音書きたい
ちょっと体調忘備録残す。ずっと不調だ。
肩甲骨と背骨の間あたりが凝って痛い。心筋梗塞とかが頭を過る。
でも何年も前からたまに悩まされる症状なので、疲れてるんだ、運動不足なんだ、姿勢が悪いんだとか理由をあげてやり過ごそうとしている。
私に何かあったら誰かこれ読んでね。
そう思って書き記し始めたけれど(遺書か)
このブログが存在することを身内も友人も誰も知らない。話していない。
言わないって決めたのは"本音で書けなくなってしまうからだ。
第三者様からは奇譚なきご意見うかがってもいいけれど、普段の生活に支障きたしちゃまずいでしょ、ってことだ。
どんな爆弾発言書くつもりや。
いや所詮愚痴程度ですとも。
理屈をつけているけれども、書いたら頑張れるんじゃないかと思っただけだ。
さあ今日も1日が始まる。
Fight
PS
今日12月23日PM10時
オールナイトニッポン
ユーミン 対談 会いたかった人
羽生結弦
ぜひ聴いて(ひたすら推しが好き)
さあ今日から 夢は夢で(2022年クリスマス)
退院してきた母は
一人でスタスタ歩いている
買物に出かけたいと言う
ちょっとどうなったん
電動ベッドに車椅子
紙オムツその他もろもろ
いっぱい用意したんだよ
話が違うやーん
クリスマスの朝夢で目が覚めた。
夢じゃなければどんなに嬉しいか。さあ今日から母との生活が始まるんだ。
決めた事がある。
一つ、キレイに暮らす事(母も、私も、家も)
二つ、愉快に暮らす事(嘘笑いでも泣笑いでも笑顔)
三つ、母に何も求めない事(闘わない、嘆かない)
さあ私、Fight
私の心の救世主 羽生さん
母は羽生くんて言葉にできない。
でもね、
この子スゴイわ!
前から大好きや!
あきれる。まあぁ!
(あきれるというのは母独特な表現で、凄いねという意味合だと理解してる)
羽生くんのYou Tube見せたんだ。
母は、高次脳機能障害、失語症、そんでもって右半身麻痺で要介護5。
私は介護1日目からヘロヘロになっている。
もしやもしやと羽生くんのこと覚えているかなあ?って覗いながら見せたYou Tubeだった。出てきた言葉がこれで、頷きながらずっと見てた。
ありがとう 結弦くん。
これで明日も頑張れる。
ほんとにほんとに
結弦くん貴方は救世主。
ちなみに母は、「大きいなって」と言った。「好き」とも言った。
いつの羽生くんを思い出しているんだか。母の頭の中を覗いてみたいと思った。母に見えているものを感じてみたいと思った。
私は横でチューハイを飲んでいる。ゆるくで良いよね。
記録
忘れない内に書きとめる。
年末から退院→介護に入らないこと。
○慣れないのに相談するところが無い。
○介護サービスがすぐにスタートできずに慣れない内に挫折する。
○かかりつけ医に初診が受けられていない。
○クリスマス正月を家で迎えさせてやりたいという思いは自分を苦しめる。
とりあえずここまで。自分の忘備録または読んでくださるどなたかの参考になればと思いつつ。
追記
洗濯物が溜まる溜まる。洗濯機にも、浴室の漂白剤に漬けたバケツにも。ひとりになれば溜息ばかりついている。
焦り
2日目にして、家介護できないって兄にラインをする。
頭痛と耳鳴りで3時半から起きた朝、ヤバイなと思った。そして鎮痛剤を飲んで治まってきて朝からやったことはMyエンディングノートに追記したことだ。
私の介護のこと、私が死んだら葬儀とお墓のこと。なんかね、何が起こるかわかんないなと思って。悠長に書き始めて数年、なんとなく焦りがきた。
体調悪いとある程度の年齢からは何時何が来てもおかしくないと、周りをみていて感じてる。
年末、ぎりぎりの29日夕方耳鼻科へ駆け込んだ。耳鳴りの特効薬などないけれど先生は優しかった。
本能、食べるということ
心の支え、羽生結弦。
もうすぐ羽生くんが内村航平さんと対談する企画が放送される。
幸せでしかない。推しの存在感はこんなに大きかったか、ずっと応援してきた側にいて、今は応援される側にいる気がする。そんなことに気づいてビックリしている。
朝から泣ける情緒不安定だ。
母は、アメとムチを使い分けてズルイ。
鬼の形相でパワハラ的な言葉を私に投げつける。母なりに疲れて機嫌が悪く全拒否したい言動だと、壊れてしまった部分がさせていることだと理解しようと頑張るけれど。
そんなに怒らんといてな、って私の言葉は泣いている。
でも、車椅子に座ってテーブルにスタンバイすると一変する。
「○○子、ような(ありがとうの意)」
さっきの罵詈雑言は何処へ行った。ごはんをセッティングすると、
「わぁーうれしい」子どもみたいだ。
足りないものを取りに行く間、手が届かなそうな位置にトレーを置いて、待っててねと言って戻ると、一品のお皿が母の前にあったり、つまんで食べてたり、待ったがきかない。
食べ始めると、一口食べる毎に「美味しい」と言う。
用意した身としては嬉しいけれど、初めは嬉しかったけれど、悲しくなる。
辛くなる。
スプーンしか使えない。
フォークで刺すことが理解できない。
目を離すと手掴みで食べる。うれしそうに「おいしい」と何度も何度も繰り返す母。
太古の昔から、まだ人として確立する前から変わることなく"食べる"は"本能"
だとつくづく思うんだ。
でもそんな母を見るのが辛くなる。
さあもうすぐ羽生くん!
今日も私を助けてくれてありがとう
年が明ければ直に春がやって来ると信じて。今日も良き日でありますように。
そうか、安住さんも好きだったんだ
レコ大をやっている。
母は今日も名前は言えないけれど「この人好き、前から好き」
安住さんへのラブコール。そうなんか、安住さんも好きだったんだ。
ちなみにジャニーズ(当時)さんちの面々も好きだ。面食いっていうやつだね。
さて夕食後の落ち着いている母はテレビの前に車椅子で陣取って、うなづきながらじっと見入っている。
テレビと繋いだ拡声機の音量はMAXで、私は耳栓をして傍にいる。
母と普通の音量で会話をすることは困難だ。
だからさっきも夕方のおむつ交換で一悶着あったんだ。
私のオムツ替えが下手でゴメン、手間取ってゴメン、止まらない便のオムツ替えは私には簡単じゃない。
なだめながらやるけど娘への言葉は厳しい。
母に私の声は届かない。
ゴメンそんなに怒らんといて!
ゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメンゴメン!
オムツを換え終えた時私の気持ちが切れて、ゴメンを繰り返し叫びながら、部屋から飛び出して手に持ってたウエットシートの箱を投げつけた。異変を感じてやってきた夫にすがりついて泣きじゃくった。私がオムツ替え下手だから!下手だから!と叫びながら泣きじゃくった。
「下手なことなんてない」って言ってくれる言葉に落ち着いていったけど、自分でもびっくりするくらいの自分がそこにいた。私が壊れた。
今は母の好きな歌番組と、好きな安住さんがテレビの中にいて楽しそうだ。ずっとこのままでいてほしいけれど、寝る前にまたオムツ替えがある。私はオムツ替えが恐い。その時の母が恐い、悲しい、報われない。
優しい声が欲しいだけなのに。
それだけで報わるのに。
暗くてごめん。
餓鬼」仏教用語を思い出す新年2023
あはっぴーにゅーいやー
変換してくれるかなと日本読みで羅列してみたら全然めでたくない。
「嫌ぁー」って母の拒絶感にしか見えないけれど‥2023年の正月にやはり私の心は病んでいる。
母にとって、
私=食物用意する人だ。
夕食にはカレーライスの用意ができている。正月なのにもうカレーかとは思うけれど、母はカレーが好物だ。それに正月の宴会は大晦日に兄たちも来て済ませた。
「なんかうまいもん食べよか」って、夕食前に母が欲しそうに言うから(いつも欲しいんだけれど)お腹が膨れない程度でと、好きな黒糖ふ菓子をあげた。ご飯まで待っててな。
そしていつものように車椅子をテレビの前にスタンバイした。
ブツブツブツなんか言ってる?「こんなたよりない」
「なんかおくれ!」かえってアダになった?ふ菓子だ。
「なんか買うてきて!」母の怒りの声がする。
顔が恐い。
声が恐い。
思い浮かべてしまったのは"餓鬼"。
ジキルとハイドVS天使と悪魔
(2023年)三賀日があけて母はショートステイに行った。
私の疲労を見通して年末にショートステイをセッティングしてくれたケアマネさんに感謝している。
前日の3日午前オムツ替え、母は死ぬと言う言葉で私の全力を尽くしている気力を奪う。
兄も夫もそんな母にいい返せと言う。
病気がさせていることだから私はできない。できなかった。その日まで。
でも切れてしまった。死ぬと繰り返す母に向って叫んだ。
「死にいな!」「死ね!」
何てことを言うのか、酷いことを言うのか、なんて怖い顔をしているのかと、我に返ったように母が言う。私の気持が通じていることへの驚き。でも私の言葉は止まらない。
「こんなふうに怖い顔して酷いことを言ってるのはアンタや!それでも母親か!私の母親か!」
ここまでは分かるはずもないだろうに私の怒りが爆発して容赦ない言葉が母に向かう。
驚いたのは、私の怒りに取り繕うように笑う表情浮かべて「ごめん、怒らんといて」と言ったんだ。
どこまでがわかって、どこからは理解できないんだろう。母がとてもかわいそうに思えたけど、言ってしまったことは戻せない。たぶん明日の母の記憶には残らない。残らないことを願った。
天使だった私が悪魔になった。
次の日の朝も私の悪魔度は半分以上を占めていた。
ちょっと余裕をもった悪魔は、やっぱり死ぬと言う母に「大変やね、何度も死なんなんね」と返しながら、「痛い、死ぬ」と言う言葉を無視して、オムツ替えと車椅子への移乗をいつもの半分の時間でやってのけた。
痛いの本当だってわかってる。骨折した肩がまだ痛いんだよね。でもちょっとだけ、ちょっとだけ我慢してほしいんだ。そんな意思疎通ができたならいいのに。
母がジキルなら私も天使だし、母がハイドになるならば私も悪魔になる。
久しぶりの楽な一日のはずなのに、母の居ない今日は今日で寂しくて悲しくて涙がでてしまう。
独りの時間が大好きだったのになぜこんなに寂しいんだろう。
もうすぐEテレ「クラシックテTV」が始まる。羽生くんと清塚さん音楽対談にまた救われたんだ。春よ、来い♪に救われたんだ。
老人ホーム探しは就活に似ている
「なあ、うめ、ペットと入居できる老人ホームに俺と一緒に入んない?」(うめちゃんは猫です。うめちゃんは、わたしはただのペットなのって爺ちゃんを切なく見つめるのです。I LOVE爺ちゃん)
誰かが絶対私のこと観てるよなって思うCMや記事が日々向こうからやってくる。介護に関しての検索どんなにしてるんだってことで、母の入所施設探し中の私だ。
そうかペット連れて行けるのか。お世話する人がいるのね。ただその子が残されちゃったらどこに行くんだろう?うめちゃんはどうなるの?
とか、そこまで考えるのやめておこう。
さて特別養護老人ホームの入所申込書を書きながら思ったことは、履歴書や職務経歴書書くぐらいに大変だってこと。受かりたい思いが共通するのだ。私がどれだけ御社に入りたいかわかってください!みたいなことだ。
この切実な事実を与えられた空白欄に書ききれないし、単純な選択項目はその中に潜む細かなことが伝わらない。別紙ご参照くださいと、1枚作文を添えた。
最後の仕事
誤嚥性肺炎を一度患うと繰り返してしまうそうだ。そしてだんだんと弱っていくので、別れは遠くないかもしれない。痰吸引は苦しいと思う。使える数少ない言葉で「やめて」と動く左半身で抵抗するから看護師は二人がかりだった。
廊下に聞こえる声に生きることも死ぬことも簡単ではないことを思う。親の最後の仕事は死をみせることだと誰かが言った。最後の一人の親の喪失感はきっと途轍もないダメージを私に与えることだろう。それもまた子供としての最後の仕事なのだろう。
母は施設で暮らしている。穏やかに暮らしている。穏やかな私自身もいる。私の名前はもう母の中にないのかもしれない。私のことは若くして亡くなった母の妹にすり替わっている。それでもいいと思う。
私が経験した14日間は何だったのだろうと考えたりする。夢ではなかったかと思ったりもする。もう一度在宅介護ができるかと自分に問うてみた時、私の心が全否定するので、やっぱり一生の中で最悪な母娘の時間を経験してしまったんだと思う。あまりに短い介護への挫折に時々胸がチクッてする。
だけど後悔がないくらい全力だった。
羽生結弦のGIFTはあの頃の私へのGIFTだ。