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微温湯との決別
直近の自分は、自分でも笑えてしまうほど、調子が悪い。
考え事を始めると、脳裏に浮かぶは、謝罪の言葉ばかり。
誰に向けたかも定かでない懺悔が、口を開けば、ともすると溢れ出してしまうのではないかと言わんばかりに、頭の中に充満している。
幾重の重奏を奏で続ける。
幸せを感じて、ごめんなさい。
頑張れなくて、ごめんなさい。
強くなれなくて、ごめんなさい。
怠惰で、逃げて、臆病で、卑怯で、傲慢で、ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
すみません、申し訳ない、ごめんなさい、許して
…許して?
自分は本当に許して欲しいの?
自分が自分を許せない、その自分は然れど状況を打破できない。
そんな時に、ある曲のある一節に出会った。
物事には、自分にとって出会うべき適切なタイミングがあると、常々感じている。福音なのか呪縛なのかはさておき、お告げである。
今回は、その出会いは、ある一曲。
某アニメ、某アーティストの歌を、斜に構えて聞いていなかったのを、初めて再生してみた。
"不幸に甘んじて 満足するなよ"
”幸せになろうとしないなんて 卑怯だ”
ああ、これだ、まさにこれだ。
この言葉が欲しかったのだ。
自分のことだと感じた。なんと的を射た言葉だろう。
鳩尾を刺されたような衝撃を受けた。
自分は卑怯で、幸せになることを受け入れられなくて、
長年浸かったぬるま湯の不幸に甘んじているのだ。
現状に甘んじれば、苦しいながらも呪詛を垂れ流して生きていれば、変わる恐怖からは逃れられるのだから。
…そんな悲劇のヒロインじみた生き方は、ゴメンだ。
立ち上がる膝の力はまだ残っていると信じて、呪詛を吐き捨てながらも、這いずってでも、前に進んでやろうじゃないか。
なんて強がってみせるが、長年の棲の心地よさは、さながら真冬の布団の如く心地よくこちらを誘う。
振り払い、呪縛から逃れるため、言葉を吐く。吐いて、書き連ねて、誰に読まれるわけでもなく言葉を並べる。
自分を保つため、
脳内で反響し続ける、許しを乞う言葉を断ち切るため。
対立すべき自分を具現化するように、徒然に言葉を書き殴る。