通行人A 《#シロクマ文芸部》
「ただ歩くだけなのに、いつまで待たせるんだ」
俺はメガネを拭きながら「計画性がなさすぎるな、芸能界ってところは」と文句を続けた。ハンカチを折り目どおりに畳み直し、スラックスのポケットに仕舞うために丸椅子から立ち上がって遠方を眺める。
ロケバスの中の小百合ちゃんは、まだ出てこない。
「どこも晴れの予報でしたから仕方ありませんよ。大好きな女優さんとの映画共演が待ち遠しいですね。ふふ」
妻の呑気な声はいつも俺をイライラさせる。
共演だなんて。俺たちは単なるエキストラじゃないか。年甲斐もなく浮かれやがって。
往年の大スターが地元の商店街で撮影すると聞かされ、つい妻の言う通り来てしまった。だが、妻の受付にやたら時間がかかったし、スタンバイの位置やら歩く方向やら指定が細かすぎるし。そうこうしている間に通り雨が降り出す始末で。
妻は若いころ女優を目指していたというから勝手を知っていたのかもしれないが、「ここから歩いて」と指定された金物屋の店先に座ってかれこれ1時間近く待たされている。
そろそろ限界だ。
「ねえ、あなた。覚えてますか」
妻が軒先から滴り落ちる雨粒を懐かしそうに眺めて口を開いた。
「ただ歩くだけって。太郎が2歳のころにも良くおっしゃってましたね」
妻は眉尻を下げ、ゆっくり二度頷いて話す。
「生後間もない次郎をおんぶして、やんちゃ盛りの太郎を散歩に連れていくのが辛いから一緒に来て貰えませんかってお願いしても、あなたはゴルフ中継に夢中で。ただ歩くだけじゃないか、って。ふふ」
何かと思えば、何十年前の話をしているんだ。覚えている訳がない。
「もう孫だって小学生だぞ。女は大昔の話が好きだな。子供の散歩の何が大変なんだ。俺のゴルフの方がよっぽど歩くぞ」
そう口に出してから思い出す。
そういえば退職してからゴルフに行ってないな。必ず行きましょうと言っていた部下どもは揃って忙しいのだろうか。
妻はふっと息を吐いて微笑み、遠くを指さして話を続けた。
「あのコロッケ屋さん、昔から変わらぬ味でとても美味しいんですよ」
妻の差す方向を見てもどの店のことだか分からないが、今のは聞き捨てならないな。
「昔から、って。コロッケと言えば太郎の好物だったじゃないか。まさか総菜で済ませてたんじゃないだろうな。ただ芋を揚げるくらい、母親の努めだろうが」
俺はふんっと鼻を鳴らした。
食卓に総菜が並ぶような家庭でまともな子供が育つわけがない。その点、俺の母親は立派だった。
ただ、「コロッケ」と口にだしたら何だか急に腹が減ってきた。帰りに買って帰ってもいいな。たまには違う味もいいもんだ。
妻もそのつもりだったのか、ニッコリと微笑んでいた。
「そうそう。お義母さまの徘徊が始まっても、あなたは、ただ歩いていただけだっておっしゃって」
「お前……!」
俺は絶句した。
母さんは凛としたまま人生を全うしたのに。
「ホームに預けたりしたら、嫁さんは何してるんだってお前が責められてたぞ。俺が随分と気を使ってやってたのに、また侮辱するのか」
忌々しいという顔で妻を見ると、妻は「そうですね」と下を向いてしまった。
そこまで反省して欲しいわけではなかったが。まぁ、いいか。
雨が止んできた。
「あなたの好きな小百合さんが、こんな役に挑むとは思いませんでしたね」
妻の呟きでふと気づいた。
そういえば、映画のストーリーは全く聞かされていない。
「『宿根草』って花屋の話だろ? ピッタリじゃないか」
俺が疑問を口にすると、妻は少し意地悪そうな笑みを浮かべて顔を上げた。
今日は少し化粧が濃いな。みっともないが、まあ、若く見えないこともない。
「あなた。この商店街のシーンは、長年連れ添った夫を……刺すんですよ。花屋にあるハサミや、剱山で。幾度も」
「そうなのか?」
眉を顰めて聞き返す。
小百合ちゃんにそんな役をさせるなんて酷い監督だ。だが、それはそれで見てみたい気もする。夫役は誰だったか。小百合ちゃんなら殺される役でも少し羨ましい気がするな。
「それを目撃した妻たちは、ゾンビになってしまうんです」
「ゾンビ? 初耳だ」
「ふふ。決してネタバレしてはいけないって評判が、余計に売上を伸ばしたのかもしれませんね。ベストセラーですよ」
「お前は本を読んだのか」
「ええ。好きな作家です」
「お前は暇さえあれば本ばっかり読んでたな」
俺が汗水流して戦っている何十年もの間、妻はゆったりと料理や読書に勤しんでいたんだ。やっと俺がゆっくりする番だな。
「ゾンビになった妻たちが、次々と夫に襲いかかるんです」
聞いたことのないような低い声がして、俺はゆっくりと振り返って妻を見つめ、続きを待った。
「商店街の、それぞれの店の前で、妻は夫に襲いかかるんです」
妻もまっすぐ俺を見つめている。
「俺もゾンビになるのか? 噛まれるのか?」
「感情移入するとゾンビになるんです。主人公の行動を目撃した妻たちの、潜在意識に火が付いて」
床屋にいた妻はカミソリで夫の首を。
コロッケ屋にいる妻は熱々の油を夫の身体に。
電気店にいる妻は夫に水をかけて電気を。
「おい、おい、おい」
聞いていて気分がいいものじゃない。なんだそのイカれた話は。
妻は俺の背後に陳列されている三徳包丁を吟味しながら話を続ける。
「金物屋は……」
「くだらない映画だな。帰るか」
妻は急に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔を向けて、少し笑った。
「あなた、怖いんですか?」
いつものような高い声だ。
「まさか。バカを言うな」
俺は半笑いで答え、ポケットからハンカチを取り出した。
すると妻は、何かを思い出したように小首をかしげて早口で囁きだした。
「コロッケが好物なのは次郎です。一番幼い孫も、今年で中学生になりました」
俺は眉間に皺を寄せて聞き返す。
「だから、なんだ?」
「タイトルは『宿根草』じゃなくて『宿根』です。積年の恨みという意味だそうです」
「だから、なんだと言ってるんだ!」
俺の立ち上がった勢いで、丸椅子が音を立てて転がった。
妻は口を開けたまま、黙り込んでしまった。綺麗に並んだ歯が覗いているので笑っているようにも見える。
気がつけば雨はすっかり止んでいる。
静まり返った金物屋の店先に、俺が唾をゴクリと飲み込む音まで響いて聞こえた。
「再開しまーす。スタンバイお願いしまーす!」
スタッフTシャツを着た若者たちがあちこちでバタバタと走り出した。
この気まずい雰囲気から解放されるのはありがたいが、ひとつ確認しておかなければ。
何かのケーブルを持った若い男を、俺は無理やり引き留めた。
「おい、お前!」
腕を強く掴まれた男は、あからさまにムっとして振り返る。
「エキストラは、ただ歩くだけなんだよな。な?」
若い男は腕を振り払って返事をした。
「そうですよ。お願いしますね」
走り去る男が持つ黒い台本には『宿根草』と書かれているように見えた。
なんだよ、驚かせやがって。
妻のやつに一杯食わされたな。
「やっぱり、ただ歩くだけじゃないか」
振り返ったが、さっきまで隣に腰掛けていた妻はそこにいない。店の奥にあるレジで何かの会計を済ませていたらしい。
長年連れ添った妻は、今まで見た中で一番美しい笑みを携えて近づいて来る。
「そう。ただ歩くだけですよ、あなた。エキストラは」
(了)
2023.9.28 追記
遊び心のナレーター、いぬいゆうた様に朗読していただきました。ひとり淋しく眠る夜、こちらもあわせてお楽しみください✨