掏摸(すり)
あるところに、ひとりの掏摸(すり)がいました。
彼が盗むのはお金ではありません。
彼は人の<心>の一部を盗むのです。
その手際は鮮やかそのもので、誰も盗まれたことに気づきません。ただ感情とともにしよう、としていたことを忘れてしまうのです。
今日もひと仕事終えた彼は、人気のない公園のベンチで戦利品を検めました。
キラキラとピンクに輝いているのは女子高生の恋心。黒くくすんでいるのはサラリーマンの上司への不信感の心。などなど、見慣れたものたちの中に一風変わったものがありました。
紫なのです。とても珍しい色です。彼は他の心たち(結晶になっています)を愛用の袋にしまい、紫のそれをしげしげと眺めました。果たしてそれは、やむにやまれない事情で手放した子供に会いに行く母親の心でした。
―この心を盗んだ、ということは…。
彼は立ち上がりました。ベンチが衝撃でガタンと音を立てました。
この心を盗んだということは、母親は子供に会いに行かなくなる、ということだ…。
彼は走り出しました。
この<心>を返さなくてはいけない…。その一心で…。
※※※※
実は彼はみなしごでした。気づいた時には、父も母もいませんでした。
彼が育ったのは劣悪な環境の孤児院で、生きるために彼は掏摸になったのでした。
そんな彼が、せっかく盗んだ<心>を返そうと走っている。
だって、可哀想じゃないか?待っても待っても母親が来なかったら…。
その<心>を盗んだ通りに戻ってきました。
彼はキョロキョロします。―まだ、いてくれ…。
願いが天に届き、彼は<心>の持ち主だった女性を発見できました。
すれ違いざまに<心>を彼女に返しました。
※※※※
そのあと、どうなったのかを、掏摸は知りません。
相変わらず、盗んでは売りさばき、生活の糧にする日々。
ただ、一度、件(くだん)の通りに行った際、母親に甘える男の子を見ました。
その子供は若干舌足らずで「おかあさん、だいすき」と傍らの女性に言っていました。
彼はそれで<何か>が―幼い頃の自分かもしれません―報われた気持ちになりました。