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正月気分の中で魂を鎮めるということ〜冥途への旅立ち

※作者註
今回の記事はダークな内容となります。ネガティブな感情に触れたくない方はご遠慮ください。


私はいま、彷徨さまよえる魂をみずから慰めています。ギュッとセルフハグすることで、永遠の闇の中に彷徨さまよえる魂を慰め続けるのです。


本日は、世間一般では元旦と呼ばれ、親戚が会堂し、みんなでその結束を楽しむ日だとされています。

何でも、歳の神が家に滞在し、その家族に幸運をもたらすという伝説が昔からあり、お餅を神棚に供えてみたり、しめ縄をお飾りして歳の神をお出迎えするというのです。

これを世間一般では、正月行事と呼びます。
だからこそ、この日ばかりはバラバラになった親戚が一同に会するのだそうです。

言ってみれば、封建時代のムラ社会の名残でしょうか。

しかし昔から親戚付き合いというものが苦手でした。もともと私の父親が親兄弟に不義理を果たしたおかげで、親戚一同から白い目で見られてきました。

もちろん子供である私には責任はなく、むしろ同情してくれる親戚もいるにはいるのですが、それでも哲学や宗教にかぶれてしまった私はみんなから煙たがれました。


なぜ思春期に、哲学や宗教の世界にドップリと浸かり込んでしまったのでしょうか?

幼少期の凄惨な体験のもとで、その魂を傷つけてしまったからです。

自◯願望すら芽生え、生きていることに一片の価値すら覚えなくなったのですが、仏教思想に触れることにより、その魂を鎮める方法を知ることができました。

かの有名な法華経(妙法蓮華経または正法華経)の中には久遠実成くおんじつじょうなる言葉が出てきます。

簡単に述べれば、仏の世界は永遠であるということです。その仏の世界に対比して、人間の命は一瞬のものなのです。

よく蝋燭の炎に人生をたとえることがありますが、人間の命は、やがて燃え尽きる存在なのです。だからこそ、今この瞬間にどんなに苦しい思いをしようとも、やがてこの肉体は消滅してくれるのです。

自◯した霊は、永久に苦しみ続けると言います。
お寺さんに頼めば枕経を上げてはくれますが、それでもその魂は苦しみの中でもがき続けるのです。

生きていればこそ、苦しみもあれば楽しみもあるのです。古今東西いろんな宗教が存在しているのですが、ほぼすべてに共通している部分があります。

肉体は神様からの預かり物

という一点です。

神様からの預かり物である肉体は大事にしなければならないのです。であるこそ、寿命をまっとうしなければならないし、養生しなければならないのです。


門松は 冥途の旅の一里塚 馬駕籠もなく 泊まりやもなし

名句ではありますが、この歌は和歌ではありません。
足利時代の僧侶、一休和尚と蜷川親当にながわちかまさ入道智蘊ちうん(通称新右衛門)の二人が交わした道歌問答に出てくる連歌になります。

この連歌が徳川の世にブームとなり、民衆向けに分かりやすくするために下の句を変え

門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

との歌になったと言われています。

この歌は何を言わんとしているのでしょうか。

私なりの解釈として、人間は必ず死ぬ運命を持つものであるから、今の苦しみはやがて尽きるであろうということです。

幸せな人生を送っている方からすれば、不吉な言葉として忌み嫌うことでしょうね。

しかし、幼少期に魂に傷がついた身として、この言葉ほど私の魂を救済してくれるものはありませんでした。

徳川時代の草紙には、くだんの一休和尚が杖の上に髑髏を乗せて、「ご用心、ご用心」と掛け声しながら正月気分に浮かれている世間を闊歩する姿が、面白おかしく語られています。

私はよく、この話を正月に語り、周囲からひんしゅくを買ったものです。


世間はいま、正月気分に浮かれているのでしょうね。
もちろん、昔からわが国には神仏習合の考え方がありますので、私も家族とともに初詣には参らせていただきますよ。

でもね、幼少期に魂が死んでしまった身としては、やがて死を迎えるであろう我が身に対して、お供え物をして、枕経を唱えるのです。

もちろん心の中だけのことですけど。

正月であるからこその自分自身に向ける合掌なのです。

我が魂よ、安らかにお鎮み下さいませ🙏

さあ、冥途の旅に出発するとしましょうか。


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