休日のあまのじゃく
私は自分のことをあまのじゃくだな、と常々思っている。
休日、車を置いてわざわざ電車に乗り、駅ビルの新しいカフェで書き物でもしようかと思い今こうして綴っているわけだが、どうも筆が乗らない。はりきって頼んだボロネーゼパスタの皿をあっという間に空にして、頼んだこともないルイボスロイヤルミルクティーなぞを飲んでいるのだが、あれを書こうこれを書こうと意気込んでいた気持ちはどこかに身を隠してしまったらしい。何を書きたかったのかもまるで思い出せず、ただただこの状況をまず文字起こしするところから始めた。それがこれである。
社会人になり、気づけば来年か再来年には10年が経とうとしている。とはいえ、社会人の自覚も未だにわかない。大学を卒業してから、食う寝るに困らないよう、だいたい週5日の労働をなんとかやり過ごし、それをひたすらに繰り返し、来る2日間の休日のために刻々と時間を刻んでいるような感覚で生きている。最近思うのは、社会人というのは労働があまりに中心になりすぎて、それまで生きていた自分の存在が曖昧になっていく生き物なのかもしれない、ということだ。何を言いたいかというと、この感覚がまさしく「社会人」の意識ということである。
仕事中や仕事終わり、家について夕飯の支度などをしている時は、「休日はこれをやろう」「そういえばあれが欲しい、今度見に行こう」とたくさんの楽しみと希望を胸に抱えつつ、なかなか平日は実現できない葛藤と戦いながら、待ち遠しさを気力に仕事や家事をこなす。ところがついにやってきた休日になってみると、その希望は塵と消え、ふとんに寝転がりながら、惰眠を貪る心地よさに身を任せ、いざ起きてもYouTubeで何も考えずぼーっと動画を見て、いつの間にか夕方になり、部屋着姿で寝起きのままの顔をした自分だけがリビングに取り残される。
今日は電車に乗り、カフェで文章を打っているためまだマシだが、どうも思考のほうはそうもいかない。今の状況を言葉を変えて、同じ事を何度も何度も綴っているだけだ。
自分のやりたかったことは何だ?自分のことなのに何も思い浮かばない。雑貨店や服屋に寄ってもビビッとこない。悪あがきでこの文字を打っている。ああ、自分はいったいどこへ行ってしまったのだろう。
年々、この感覚は強さを増している気がする。それに拍車をかけるように、最近自分が充実しているなと感じる瞬間の幅が狭まっている気がする。具体的には、例えば洗濯して干したり、洗車したり、美味しいものを食べたりしている時なのだ。いや、日常的な家事で幸福を得られるのは幸せなことかもしれない。だけど心の中のあまのじゃくな私が言う。「お前の楽しみはこういうものじゃないはずだ」と。
自分の趣味の一つである、ゲーム実況動画を見ている時ですら思う。純粋にこのゲーム実況を楽しんでいるのではなく、虚無を感じている自分が少しでも満たされたくて、他人が大げさに喜怒哀楽の反応をしているのを見て、自分の感情の代わりをしてもらっているだけなのではないかと…。
こうして見ると、なんだかとっても不健康な気がする。だけども、決して悲観のみに縛られることはない。頼んだこともないルイボスロイヤルミルクティーの、ルイボス部分の味は、どこか薬というか、ハーブというか、そんな味がするのが特徴だが、ロイヤルミルクティーに混ぜてもその味は消えることはないらしい。こうして文字を打ちながら口の中に広がるルイボスのハーブ感…自分のどうしようもない感傷を、なんとかひねり出して言語化しているこの状況と重ねて、勝手に親近感を見出している。
休日の騒がしいカフェは、90分の時間制で、客一人一人に座席利用時間のレシートが渡される。時間を忘れて過ごすことのできないカフェなど、なんとも世知辛いなと感じつつ、一方でこの感傷に浸る時間を強制的に切り上げさせられると考えれば、少しは前向きに捉えられるのかもしれない。