本音を、奪い返す
「生きちゃった」という映画を観た。
今の自分の演技に何かが足りなくて
ずっと探していたものが
そこにあった。
主人公の男性は
色んなものに流されてしまうのだ。
大切なことを
言葉にして伝えることが出来ない。
欲しいものを欲しいと言えない。
ごめんも、ありがとうも
ほんとはね、も
何一つ言えない。
周りには彼よりも器用な人たちがいる。
あるいは激しい気性で
感情のままに走っていける人たちがいる。
どちらが正しいんだろう。
この映画を見ていると
その答えは存在しないことに気づく。
映画を撮った石井裕也監督は
「映画の魂を、取り戻す」と話していた。
原点に戻る。
「この国には、本音がない。
だから本音を、映画によって奪い返すのだ」と。
主人公は気持ちを話せない。
では、流暢に話している他の登場人物はどうか。
彼らが話しているのは、本音か。
そのことに気づいた時
すべての作品行為は
「本音を取り戻す」作業なのだとわかる。
それなのに、石井裕也監督は
「奪い返す」という言葉を使う。
そこに彼の美しい熱がある。
熱のない映画など無意味だ。
わたしは今ミステリー作品を演じている。
謎解きである。架空である。
でもだからこそ、生々しくなくてはならない。
遊びの演出であるからこそ
禍々しく本物でなければならない。
切れば血が出るのだ。
その血は
「人間の本当の気持ち」である。
ミステリーだから
人が死ぬ。
人が死んだ時
わたしたちは簡単に乗り越えられるだろうか。
否。それは不可能である。
混乱し、泣き喚き、醜態を晒す。
人に掴まり、払いのけ
あるいはその頬を打ち。
そうやってしか
わたしたちは愛する人の死を
過去に押し退ける術を持たない。
禍々しく、忌み嫌われた
「本音」というものを
それを吐く時の
人間の「顔」というものを
大切にしたいと思う。
わたしは当日劇場に
人間の本音を、奪い返しに行くのだ。
醜態を晒し、泣き喚きに行くのだ。
それが今回の
亡き人に話しかける術なのだ。
人間は美しい姿ばかりでない。
こんなにも計算高く、それなのに愚かで
思いやりに欠け、我慢が足らず
みんな同じように醜い。
ああ。
そんなことを、わたしは知らなかった。
演劇はいつもわたしに
人間を愛する
新しい道を教えてくれるのだ。
愚かであれ。
自らの全てを晒せ。
そうして手を伸ばして
わたしたちは
自分たちの本音を今
奪い返すのだ。