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修羅
わたしの人生の中には
多少人とは異なるふたつの課題が
繰り返し現れてきた。
ひとつは嫉妬についての課題。
もうひとつは愛についての課題。
わたしには人から見て
多少目立つところや
たまに評価される部分がある。
それはすごく幸運なことだ。
ただわたし自身の性格の
過度のネガティブさが
それをほぼ感じない状態に
常に自分を貶めていることは
確かに反省しなければならない。
とにかくその特殊さの為
嫉妬され攻撃されることの
多い人生だった。
その攻撃をいかにかわすか
いかにその感情から逃れるか
そのことで永く苦しんだ。
もうひとつは、愛についての課題。
これは異性に対しても
同性に対しても
度を超えた愛情を持つことを
コントロールすることが難しい
という問題。
友情の範疇はここまで。
尊敬の範疇はここまで。
それ以上にその人を
人間として深く
見つめてはいけない。
そこにある傷や
泣き顔や本音を
見つけてはいけない。
心を動かしてはいけない。
愛していい人間の数は決まっている。
使える時間も決まっている。
だから感じないようにするのだ。
このふたつは異なった問題だと
ずっと思ってきた。
最近ふと感じるのだ。
それは同じことだったのではないかと。
わたしの過度の他者依存
そして同時に自己否定は
何を意味しているのか。
わたしに嫉妬する人
わたしを愛する人
その有難き人たちは
わたしなどという人間に
何を見て、そばにいるのか。
わたしは人を求める。
ひとりで生きる意味を持たない。
わたしはわたしに関心がない。
他者がいなければ、わたしは無だ。
わたしが無だから。
だから人は
時にわたしを攻撃し
時にわたしを愛してくれる。
そうなのではないだろうか。
そう思った時
マイナスとプラスが
捻れて繋がるような
不思議な感覚になるのだ。
わたしの虚無が引き寄せるものに
わたしもまたただまっすぐに
怒り泣き、笑い考えながら
やっていけば良い。
そんな気がして。
そのことを宮沢賢治は
「修羅」と呼んだのではないかと。
傲慢なことを考えながら。
傲慢で醜い自分自身の
「修羅」を
これからはそのままにして
生きていきたいと願う。
わたしの中の
鬼も悪魔も
いつか来る死の瞬間に
成仏出来るように。
わたしはわたしでしかない。
善くても悪くても。
もっと正直に
もっと優しくあろうともがき
もっと子供のように残酷であろうとするのだ。
いいひとの仮面はいらない。
ほんとうの人間は何かを
わたしはまだ知りたい。