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コンパッション(共感共苦)は可能か?
そこにあるのは、裸の壁。
剥がれた壁紙。
糞尿と汗、それらの蓄積した匂い。
あるいは腐乱した遺体の。
そこに立つことが
出来るのかどうかが
かつて問われていたし
今でも問われているのだ。
それがわたしの本質だった。
かつて。
そのことを辛いと思ったことは
たったの一度もなかった。
その問いに向き合えるのならば
自分の命すら惜しくない。
そう思っていた。
コンパッション(共感共苦)だけではない
商売としての演劇
芸能としての演劇に
吐き気をもよおして
表現の世界から、足を洗った。
たとえもう一度
演劇をやったとしても
もうあの頃のようではないと
諦めていた。
わたしは年をとり過ぎたし
もうプロではないのだから。
だから、驚いたのだ。
今回演じる台本を読んだ時に。
神様は、いるのかもしれないな。
そんなことを思った。
そうとしか考えられない。
どんな本でも、コンパッション出来るわけじゃない。
だとしたら、どうしてそれを引き当てたのか。
わたしたちがここまで生きてきた
歴史の中に
戦争やジェノサイドによって
殺され、かえりみられなかった沢山の命がある。
その命たちの
ことばを
話したいと
ずっと願っていた。
演劇を辞めてしまったあの日から
わたしはほんとうはずっと
それだけを
魂の奥底で求めていた。
演技したいのではない。
どんな本でも、どんな役でもいいのではない。
ほんとうは…
わたしの本心は…
こういう本を
ずっと、ずっと
探し求めていた。
こんなに素晴らしいのなら
一生この本だけを
繰り返し演ってもいい。
いや、むしろそうしたい。
そう願うほどに…
コンパッション(共感共苦)は
可能か?
張り裂ける時代の傷痕に
触れる勇気と
その権利が
おまえにはあるのか。
そういう生き方を
してきたのか。
そう己に問いかけながら
ああ…
こんなにも幸せだと涙が溢れる。
優れた芸術は
その存在により、既に人を癒す。
わたしはもうこの作品によって
救われたのだ。
わたしのすべきことは
たったひとつ
この素晴らしい完璧な作品を
何一つ取りこぼさず
自分の体、声、内臓
記憶、感情、論理
そして五感のすべて
生きている感覚のすべてを使って
再現することだ。
わたし自身など
1グラムもいらない。
演じた後に
自分自身とは何かわからなくなるほどに
わたしの中を
すへて彼女で満たしたい。
こんな欲望があるだろうか。
かつてあっただろうか。
コンパッション(共感共苦)とは
犠牲や正義ではなく
清らかなる、幸せへの意志
枯渇する愛への欲望であったのだと
わたしは知らなかった。
わたしは
この役を演るために
生まれてきたのかもしれない。