ときどき日記(617)奥羽本線さびれちまった
時刻表復刻版の旅(9)
「急行 十和田」は仙台までは「常磐線」経由だから「東北本線」の後半のページから出てくる。
大学の卒業式を控え、最後の長期(といっても8泊9日うち車中4泊)旅行に出たとき、そのときは「急行 八甲田」ではなく「急行 十和田」にした。運悪くその列車は、仙台付近の工事の遅延で大幅に遅れが生じ、「回復運転につとめます」と車内アナウンスしていた。予定していた「青函連絡船」に乗れないかもしれないと焦った。どーしようもないんだけどね。
やはり「東北本線」には旅の思い出がたくさん詰まっているし、日本食堂で車内販売のアルバイトをしたこともあり、何度眺めても楽しい。
その卒業旅行で最後帰りに乗ったのは「奥羽本線」の「急行 津軽」だ。何時に乗車したのか覚えていないぐらい忘れているが、ことのほか混雑したのだけは覚えている。ねぶた祭のころの「急行 八甲田」ほどではなかったものの、乗車率はほぼ100%だった。100%、つまり前の座席に足を投げ出すことができずで14時間の乗車はきつかった。辛い思い出しかない。初めて乗った「急行 八甲田」の時は前に座ったのは女子だったけど、このときはオヤジ。楽しいことひとっつも無かった。何であんなに混んだんだろう。僕らよりも前の世代の集団就職じゃあるまいし。
日本食堂のアルバイトで何度も往復した「奥羽本線」だけれど、10年近く前、家内と「フルムーン夫婦グリーンパス」で旅に出たとき、その「奥羽本線」に乗ったが、ことのほか寂れていたので少し悲しい思いがした。その旅は、5日間有効のパスを購入して出かけた。初日は新幹線を乗り継いで鹿児島まで行き、2日目は鹿児島から大阪、3日目は在来線の「特急 サンダーバード」で金沢、「北陸新幹線」で大宮、「東北新幹線」で宇都宮。
さらに話は脱線するが、83年に就職した日本食堂の先輩がその頃は「特急 雷鳥」だったと思うが、その食堂車に乗務していたと聞いた。大阪から金沢までと短いとは思ったが、当時はそんな特急にも食堂車が付いていたのだ。
4日目は、宇都宮から「東北新幹線」「山形新幹線」で新庄、ここから大曲までは在来線の普通列車に乗った。このとき新庄駅や大曲駅、この間の各駅がすっかりひなびてしまっていた。乗務したのは82年の夏、ハイシーズンだったとはいえ各駅、多くの人であふれていた。大曲からは「秋田新幹線」で秋田。5日目は「秋田新幹線」「東北新幹線」で帰京。秋田だって再開発されたとはいえ寂れてしまって、あのころの記憶では、駅前はたくさんのネオンが輝き、ロータリにはたくさんのタクシーが停まっていたように思う。
北海道へは「青函連絡船」では4回渡った。1回目は、この復刻版の時にはなくなっていたのか、「函館・大沼ミニ周遊券」を使って函館と大沼付近を訪れた。8月上旬、宿も取らずに行ったものだから、なかなか宿が見つからず、湯の川温泉から函館まで探しながらトボトボ歩いてやっと見つけた民宿に泊まった。当時、相部屋は当たり前だったのか、別の時、根室でも相部屋だった。どうやら、函館は港まつりと函館競馬が同時に開催されたため混んでいると民宿の方が教えてくれた。2回目は「道南ワイド周遊券」を使っての旅だ。もちろん北海道に上陸するまでは車中1泊+青函連絡船だ。「函館本線」「室蘭本線」で洞爺。洞爺湖を観光して、この時の旅はすべてユースホステルに泊まった。旅館に併設したようなユースだったからか、やたらと食事が豪勢だったと記憶する。次の日は登別のユース。その次の日のユースホステルでホームシックにかかるという事件があった。
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