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センス・オブ・ワンダー

子どもには、自然や生きものを身近に感じながら成長してほしい。

家の中でクモに遭遇すると、小さな悲鳴をあげるような母親だけど…そう思う。





先日、長男とふたりでデートと称したお出かけをした。

長男の好きなことに付き合う日、と決めていた。


秋の味覚がたくさんのったパフェを食べたあと、腹ごなしをかねて遊歩道を散歩する予定だった。

ところが、長男はたくさん飛び交うトンボから目が離せない。

予定を変更し、トンボ取りが始まった。



夢中になってトンボを追いかける長男。

なかなか捕まえられなくても、笑顔で追いかけ回していた。

トンボが止まる木や彼の足元で跳ねた虫たちにも、ときどき意識を向けながら、秋晴れの日を楽しんでいるようだった。

そんな姿を見て、わたしはふと最近読んだ本を思い出していた。




レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダー

わたしが読んだのは、森田真生訳のもの ↓

レイチェル・カーソンと言えば、「沈黙の春」の著者。

本作も自然と生き物への、愛や尊敬の念をひしひしと感じる内容になっている。

(今回は訳だったが、そんなに長くないので、原文で彼女の文章に触れたいとすら思わせてくれた。)


本のタイトルにもなっている、「センス・オブ・ワンダー」。

作中では、「驚きと不思議に開かれた感受性」と訳されている。


一体なんのことやら…と思うかもしれない。

作品を読むと、甥のロジャーとの海や森での冒険をはじめとした自然との触れ合いのようすから、著者のセンス・オブ・ワンダーを垣間見ることができる。

「この人の目には世界がどう映っているのだろう」と、驚くような、うらやましいような気持ちになるほどの観察眼と表現力。

子どもと一緒にこんな世界を見ることができたら…そう思わずにはいられなかった。


「これを見て」「あれを見て」と、彼に呼びかけるときの私は、年上のだれかと発見を分かち合うときと同じで、一緒に見ているものに感じる自分の喜びを、ただ素直に表現するだけなのです。

p15

著者がロジャーと森で過ごすときのようすを、このように述べていた。


難しく考えていたけれど、これならできるかもしれない。

子どもたちには、センス・オブ・ワンダーを大切にしてほしい。

そして、わたしも一緒になってその世界を楽しめるよう、センス・オブ・ワンダーを取り戻したい。

そんな気持ちになったのを覚えている。





この本の影響かもしれない。

そんなに広くない遊歩道の片隅で、まさに今、長男のセンス・オブ・ワンダーが目の前に現れているのでは…なんて考えてしまった。

駆け回る長男を眺めながら、「そうだったらいいのにな」と思う。


なんなら、トンボ取りに苦戦している長男を手伝うため、一緒になってトンボを追いかけるわたしにも、まだセンス・オブ・ワンダーがあるのでは?

そう考えたら、どんどんやる気がわいてくる。

長男とふたり、時間を忘れてトンボを追いかけた。



どうやらわたしのやる気はトンボを捕まえるには役立たなかったようだ。

結局、その日は1匹もトンボを捕まえることはできなかった。


まあ、そういう日もあるだろう。

わたしとしては長男とセンス・オブ・ワンダーを体感できただけでも大収穫で、大満足だった。

ただ、「デートにしては、なかなか渋い時間の使い方だな」と思ったのは、また別のはなし。


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