見出し画像

概念への到達と自在(第3章第1節ー5)

 前々回から、①目の前に有る、このパソコンという事がどのように分かるのか、つまり、パソコンを外的に分かってみるのと同時に、②その際、分からないという事態は生じないのか、③生じたとして、言葉において分からないとされたこととどのような関係があるのか、を調べてきました。
 今回③を終え、次の話題に進みます。

言葉において自在する自然との関係(③)

 以上から、天然事においてのみ、外的な分かりにおいて分からないという事態が生じうることが分かりました。 

 他方、天然事であれ技術事であれ創作事であれ、それを指示する言葉については、内的な分かりにおいて世界度を超える部分について、分からないという事態が生じることとなります。
 そして、内的な分かりの限界とは、言葉の使用例の限界です。

 ここからも、言葉は天然事だということが分かります。パソコンという言葉と、このパソコンと名付けられる物(技術事)は異なるのです。

 そして、ある言葉ないしは名前の使用例を分かること(実際的には、その意味を辞書などで調べ、あるいは文法を調べること)は、それを外的に分かることに他ならないのです。
 そうやって得られた分かりが、内的な分かりと呼ばれ、名付けられるその指示対象に、当然に帰属することになる結果、分かっているということになるのです。

 つまり、言葉において分かられる自然と、天然事において分かられる自然に、差異はありません(そもそも、事ではないので、差異があるはずもありません。)。

 逆に言えば、天然事としての言葉だけは、それを外的に分かることが、他の事の分かりを導くことになり、その点で特筆すべきものをもっています。

自然とは何か

自然は「アプリオリ」な概念なのか

 ここでは、アプリオリな概念が日常を可能にしており、これは言葉にいわば内蔵されているところ、「私」は、言葉を学ぶことを通してアプリオリな概念を学び、よって日常においてある、と考えることは、先述しました。
 つまり、逆説的ですが、「私」から見れば、言葉に関する経験を通じて、アプリオリな概念が取得された(させられた)、と想定するわけです。 
 この意味では、アプリオリという表現は不適切だということになります。そこで、単に概念と呼ぶことにしたわけです。

 ここまでで、この文章は世界及び事を分かり、同時に、自然が分かられました。分からないと事態が生じることを確認したのです。

 では、これらは、日常を可能にする、つまり日常を演繹する概念なのでしょうか? あるいは、いまだそこまで到達していないのでしょうか?

まだ概念には到達していない

 そもそも、日常を可能にする、又は演繹するとは、事を外的に分かり、かつそれを表現できるようにするための、日常的な言葉の使用ができるように用意する、ということです。

 たとえば、「今日は運動会があって、○○君に100m走で負けちゃった。」と言うとき、まず、発話者は某時点の某運動会で100m走をし、○○君に負けるという事があり、その事を、発話者は言葉により分かるのです。
 つまり、発話者は、負けるという事が何なのかを分かっていて、だからこそ、先に○○君がゴールテープを切ったときに、「あ、負けた!」と分かるのです。分かりは、必ず言葉を通した分かりなのです。

 そして、発話者は、その事を他者に対して言葉によって表現しているのです。もっといえば、言葉を通した分かりだからこそ、それを他者に対し表現できるのです。

 このとき、上記の会話文の全単語は、言葉上、使用できるように用意されているわけですが、用意しているのは何か、ということです。

 事のうち天然事においてのみ自在する自然が、このように用意しているのでしょうか?

 そうだとはいえないでしょう。もしそうだとしたら、原油があるおかげで○○君に負けたこと分かる、という奇妙なことになりかねません。

 つまり、およそあらゆる天然事において自在する自然が日常を可能にしている、とはいえないということです。
 逆に言えば、すでに示唆した通り、「私」と「私たち」という天然事において自在する自然が、日常を可能にしている、と考えるのです(次回)。

「自在」について

 自然という語を出すうえで、自在という語について説明が必要だと思われます。大まかに言って、以下の3つのニュアンスがあります。

変幻自在?

 自在という語は、日本語が母語の方なら分かるかと思いますが、変幻自在という言い回し以外ではほぼ使うことがありません。自然が自在するというとき、たしかに、そのニュアンスもこめられています。

 というのは、すべての事から自然が分かられるにもかかわらず、その事はすべて自然ではないからです。
 語弊を恐れずにいえば、万事は自然であって自然ではないのです。

 分からないという事態は、日常においては、言葉を学ばされてきたことで、見えなくなっています。すべての事を、「私」は分かっていることになっているからです。
 ほとんどの分野の研究者は、天然事を分かることを生業としています。しかし、彼らにおいても日常があります。家族や友人とごはんを食べ、スーパーで買い物し、将来のお金の心配をしたりします。およそ人間である限り、日常において有るのです。

 他方で、その日常において、あまねく自然が自在し、すべてが自然に存在し、日常は自然に過ぎていくのです。

 ここでは、いわば自然がいわゆる可能態で、事が現実態だ、との考え方を採用されているわけではありません。
 自然も事も、どちらもいわば現実なのです。事及び世界は、言葉という眼鏡を通して見た自然なのです。

自らで存在する?

 事は、言葉の上での連関、つまり世界において存在し、そのことによってはじめて意味を有することになります。

 他方で、自然には意味がありません。存在する事ではないからです。意味を有することないのに、この文章は、名付けて事であるかのように論じているわけです。
 つまり、語弊を恐れずにいえば、自然は他の事との連関を一切離れてある、という点で、自らのみで有るのです。

自ずから存在する? 

 さらに、事は、言葉によって存在し、言葉自身も、言葉によって存在しているところ、言葉は、天然事として、太古の某時点で自然に存在するようになったと想定されるものです。

 他方で、自然は、自ずからあったのです(あったという表現は誤りなのですが。)。あるようになったものではないのです。

補足 語源と学術語について

 哲学の中には、語源を分析の対象にしたり、語源を理由に術語を定義したり、語源を手引きに議論を進めるものがあります。

 しかし、語源は、日常で使用される言葉を歴史的に解析したものであって、日常を可能にしているものではありません。だからこそ、語源としてあえて指摘されるのです。
 語源を分かることで得られる分かりは、その語をその意味で日常的に使用していたかもしれない人々の日常の分かりであって、「私たち」の分かりではありません。

 したがって、語源を根拠に哲学をすることは、少なくともこの文章が意図するものではありえません。

 他方で、日常において使用される語が非常に多義的で微妙であることから、学問としての厳密さを確保すべく、敢えてあまり馴染のない学術語をもって議論する姿勢もあります。

 これは、定義について前述したことと重なりますが、日常を分かるためには効果的です。
 が、日常を可能にする概念を帰納的に見出す議論にはなりえないのです。
 なぜなら、そのような語を用いた時点で、もはや演繹になっているからです。したがって、この文章が意図するものではありえないのです。



 




いいなと思ったら応援しよう!