前回に引き続き、「私」が存在する事なのか、あるいは自然なのかについて論じていきます。 「私」による「私」の分かり(続き) 事としての自分と、自らを分ける主体の問題 前回、「私」が目の前の事を分かると同時に、「私」自らを当然に分かることになる、つまり自分を分かることになる、と論じました。「私」は、分かりを通じて、目の前の事と自らとを分けているのです。 あたかも、ドーナツの穴と、ドーナツの可食部位とが、互いに互いを存在の基礎としているのに似ています。 ですから、自分
前回に引き続き、私が天然事をどのように分かるのかから議論を始めます。 「私」の事の分かり方(続き)天然事の分かり方 技術事や創作事と異なり、天然事は、「私たち」が作ったものではありません。 ただ、「私たち」がそれを指示する名前を言葉において用意したと想定できること自体は、同じです。 つまり、天然事であっても、「私」は、あらかじめ決められているその名前によってそれを名付けて、その事が存在するということにしているわけです。 ただ、このような分かりがトートロジー的
前回に引き続き、いわゆる物自体の問題について論じてから、第1節で論じた事の3分類との関係を見ていこうと思います。 名前による分かり「以前」に、何かがあるというべきか(続き)自在の意味 自在とは、分からない(外的に分からないことを言います。以下同じ。)ものの、あると想定できることをいいます。想定できるだけですので、あるわけではありません。 ここでようやく、自在という語を定義することができたわけです。 そして、自在は、自然の自在です。事は自在しません。
「私」は事を分かっています。そして、事を分かるのは「私」です。それと同時に、自然は「私」に分かられるのです。 事を分かること、つまり体系化することにおいて、「私」の自然が自在します。つまり、内的な分かりを超えてその事を分かりきろうとする傾向そのものが、どこからきたものなのか分からないのです。 ただ、そもそも、「私」とは何でしょうか? 事なのでしょうか? どのように世界において存在し、または存在するようになり、かつ世界や自然とかかわっているのでしょうか? この問いを
前々回から、①目の前に有る、このパソコンという事がどのように分かるのか、つまり、パソコンを外的に分かってみるのと同時に、②その際、分からないという事態は生じないのか、③生じたとして、言葉において分からないとされたこととどのような関係があるのか、を調べてきました。 今回③を終え、次の話題に進みます。 言葉において自在する自然との関係(③) 以上から、天然事においてのみ、外的な分かりにおいて分からないという事態が生じうることが分かりました。 他方、天然事であれ技術事で
前々回から、①目の前に有る、このパソコンという事がどのように分かるのか、つまり、パソコンを外的に分かってみるのと同時に、②その際、分からないという事態は生じないのか、③生じたとして、言葉において分からないとされたこととどのような関係があるのか、を調べてきました。 今回で②を終えます。 事の分類と自然の自在(②ー4) 前回は、手が加えられて存在している事かそうでないかが、分からないという事態の可能性の分け目だとされていました。 が、そもそも、手が加えられるとはどういう
前回の続きで、①目の前に有る、このパソコンという事がどのように分かるのか、つまり、パソコンを外的に分かってみるのと同時に、②その際、分からないという事態は生じないのか、③生じたとして、言葉において分からないとされたこととどのような関係があるのか、調べてみましょう。 このパソコンは何でできているか(①) 事を外的に分かるためには、内的な分かりの中には含まれない性質(これを差異といいます。)を分かる必要があります。 いろいろな差異を描写することができますが、ここでは、日常的
前回のまとめ事の具体例 前回、パソコンも言葉も事である、と論じました。 ここにいう事は、事実といっても構いません。しかし、通常、事実は思い込みや迷信などと対置されるところ、この文章では、事は後者をも含むものと考えられています。 また、事は、物事というときの事ですので、物といいかえても構いません。ただし、物は、日常においては、長さ、重さ等をもつとされていますので、事のうち、このような性質をもつものが物とされるべきでしょう。 ですから、例えば、右・左、権利・義務、
日常的な言葉づかいを手引きにすることは妥当なのか 本章では、アプリオリな概念が見出される過程が記述されます。 その際、序論の通り、当該概念は日常的な言葉に内蔵されていると考える以上、大まかにいえば、言葉が日常を可能にしているということになります。 よって、序論で述べました「日常から出発する」とは、日常的な言葉づかいを手掛かりにするということであり、その終着点は、必ずアプリオリな概念のはずです。その意味で、表題の問いに対しては、妥当だと答えることとなります。 ちなみに
第4章では、演繹的推論がなされます。 演繹とは、辞書的には、一般的なものから個別的なものを導くことをいいます(広辞苑第4版参照)。ですが、例によって、この文章ではこの意味で用いられません。 帰納的推論から何が得られたか 第3章にて、日常を演繹できるような概念が見出されることとなります(帰納)。 その際、すでに自然に分かった気になっていること、あるいは日常において分かっていることが、言葉の分析を通して分かることになり、よって言葉で指示しえないものも分かられることとなりま
序論1の通り、推論とは、既知のことから未知のことを知ることとされます。しかし、ここでは、すでに自然に分かった気になっているものを分かり、それと同時に分かられるものを知ることを推論と呼ぶこととします。 すでに自然に分かった気になっているものの摘示と疑念 すでに自然に分かった気になっているものは、「私」あるいは「私たち」の使用する日常的な言葉から抽出され、摘示されることになります。アプリオリな概念というものは、いわば言葉に内蔵されていると考えるからです。 そこで、このような
帰納的推論とはどういう意味か 辞書的には、帰納とは、個別的なものから一般的なものを導くことをいい、推論とは、既知のことをもとに未知のものについての知を得ることをいいます(広辞苑第4版参照)。 しかし、ここでは、このような意味でこれらの語は使われません。 帰納について形式は世界の基礎なのか 人間にアプリオリに備わっている概念、形式、又は論理(大まかに見れば、これらには名づけ方の違いしかありません。)が、経験や、世界ないし私の存在(または、これらを記述すること)を可能にし
動機・目的の重要性 哲学上の文章にも、必ず問いがあり、必ず分析があり、必ず推論があります。そして、哲学においては、問われる事実も、事実の分析の手法も、推論の仕方も、私たちは自然に分かっています。あるいは、分かられる、というべきかもしれません(自発又は受け身の意味で)。 つまり、およそ哲学的文章には、読む前からすでに自然に分かっていることしか記述されていないのです。 歴史的にみれば、哲学的文章は無数に存在しています。それらは、互いに矛盾しあい、立場上の対立を孕んで進展して
はじめまして。はんぺんと申します。 プロフィール・高校では数学物理好きの生粋の理系でしたが、いわゆる理系の学問に関心を失い、哲学に強く惹かれるように。大学は理系入学して文転。 ・ドイツ近代哲学やイスラーム神秘哲学などに傾倒。その一環で、ドイツ・ボン大学にも1年留学。 ・卒業後、哲学というものから手を切ろうと、法科大学院に純粋未修入学。 ・1年半で予備試験に合格し、法科大学院退学。 ・2023年の司法試験合格。 なぜ今、noteをはじめるのか一言でいうと、哲学がしたいからで