【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#007
#007 いい事ばかりはありゃしない
レイアウト用紙にまず縦の線を一本引く。その始点から終点が、一行の文字数となる。そして終点から斜めに上がる線を引き、そこからまた縦線を上下に。つまり欧文の「N」の線を書くわけだが、これで一行が何文字、そして何行にわたる文章になるのかが現される。レイアウト用紙はコクヨなどから出ている市販のものもあるが、大抵、出版社は各雑誌ごとのものをオリジナルで作っている。文字の大きさや段組を決めたものだ。
当時のアダルト誌はA4判が主流だった。これは一九七四年に小学館からA4判の大型雑誌『GORO』が創刊され、篠山紀信撮影のグラビア「激写シリーズ」が人気となり大ヒットしたからだ。それまでヌードグラビアが載る雑誌と言えば平凡出版(後の「マガジンハウス)発行の『平凡パンチ』や集英社の『週刊プレイボーイ』など、ひとまわり小さいB5判、いわゆる週刊誌サイズだった。しかし判型が大きくなれば写真は当然迫力を増す。そこでマイナー出版社が発行する「エロ本」も、『GORO』に追随し軒並みA4判になった。
アダルト系「エロ雑誌」の歴史とは判型の変遷と、このようなメジャー誌のパクリの歴史でもある。一九六八年には『平凡パンチ』の系列から『ポケットパンチOh!』という月刊誌が創刊された。これにはモデル嬢がひとりで写る「単体ヌード」だけはなく、男女がまるでセックスしているかのような扇情的グラビアが掲載されたため、若者たちの間で一気に注目された。
この雑誌はタイトル通り「新書判」の小さいサイズだった。するとマイナー出版社の発行物もすぐさま右に習えした。特に七〇年を境に各社から創刊されたSM雑誌はすべて小さな判型となった。これには青少年がエッチな雑誌を勉強机の片隅などに隠しておきやすい、学生鞄に忍ばせて学校へ持ち運ぶ際に便利という側面もあったらしい。
横西編集長が島谷前編集長から引き継いだ『クライマックス・マガジン』という雑誌もやはりA4判で、『GORO』同様中綴じだった。A4判の場合、本文は一行二〇字で四段組というのが一般的だった。本文、文字の大きさは十三級から十二級が普通だ。写植文字の大きさは「級」で表現される。一級が「〇・二五ミリ」。十二級なら一文字が三ミリ四方の四角の中に収まる。
しかし日本語の文字というのは一部の漢字を除いて四角より小さい。ひらがらやカタカナは当然小さく、さらに小さな「ゅ」や「ぇ」もある。なので本文を十三級で組む場合、一級詰めて並べた方が美しい。この場合「一歯詰め」、もしくは写植機の歯車のピッチをひとつ送るので、「十三級・十二歯送り」と表現する。行間の指定も同じく級数で指定する。文字の大きさが十三級だと、行は二〇級くらいで送るのが普通だ。
「本文=十三級・十二歯送り、行間二〇級」、これをデザイナーや編集者は「本文12Q時間11H行間20H」とレイアウト用紙に書き込んでいく。
『クライマックス・マガジン』にもオリジナルのレイアウト用紙があった。「本文=十三級・十二歯送り、行間二〇級」の四段組である。ただ、僕はそれを使わなかった。先月までやらせてもらっていた一ページの読者ページを四ページに増やし、高校生の頃から読んでいた雑誌『宝島』(JICC出版)のコラム欄、〈ボイス・オブ・ワンダーランド〉のエロ本版みたいなものを作りたいと思ったからだ。
「イイじゃねーの。若い感覚だねぇ」
ラフデザインを見せると横西さんはそう言ってOKを出してくれた。
コラムページなので一行を十五文字くらいの短いものにしたかった。そもそも『宝島』は一九七三年に晶文社より『ワンダーランド』とい誌名で創刊されたものだ。その際、実質的な編集長・津野海太郎(「植草甚一・責任編集」と銘打たれていた)とアートディレクターの平野甲賀は判型をB4判に近い大判(二五八ミリ×三二八ミリ)にして、さらに敢えて新聞活字を使用した。欧米のタブロイド新聞を意識したのだ。
『ワンダーランド』は三号目から誌名を『宝島』に変更。版元もJICC出版に移り判型もB6判のポケットサイズ(単行本とほぼ同じ)になるが、「ワンダーランド」という名はコラムページ〈ボイス・オブ・ワンダーランド〉に引き継がれた。ゆえにデザインも新聞風の一行の短いスタイルが踏襲されたのだ。
もちろん当時の僕はそんな専門的なことなど知らない。タイトルを〈ボイス・オブ・ワンダーランド〉を真似て〈クライマックス・ボイス〉として、誌面をそれ風にパクッて作りたいと考えただけだった。『クライマックス・マガジン』は部数二万部ほどのマイナー誌なので、読者投稿なんてほとんど来ない。また来たとしても、載せて面白いものはなかった。だからすべて自分でデッチ上げて書いた。
例えばアパートの隣の部屋から夜な夜な女の喘ぎ声がする。それもかなり激しい。いったいどんなエロい女なんだろうと思っていたら、ある日廊下で挨拶され、当時のアイドル歌手・石川秀美似の清楚でムチャクチャ可愛い美少女だった、みたいなたわいのない話だ。
また、編集部には様々な企画物の写真が山ほどあった。アパートの窓辺で女性が着替えているシーンを盗撮したもの、階段でのパンチラや「ボクの彼女のヌードを撮りました!」的なもの。もちろんすべてヤラセだ。特写、つまり撮り下ろしのグラビア撮影の合間に撮るのだ。「ボクの彼女の〜」というのは、モデル嬢が着替えたり、シャワーを浴びているところを、「ちょっと撮らせて」と頼むのだ。
だからデッチ上げのコラムを作るのに材料は困らなかった。雑誌の誌面作りを勉強している身にとって、それらの膨大な写真たちはまさしく宝の山だった。どんな記事でも作ることができた。
男のモデルが登場する、「絡み」と呼ばれる写真もあった。元バイト仲間の国城がよく顔を出していた。
「クニ、元気かな?」と懐かしくなった。男役は若手の編集者がかり出されることもあったが、普通は恥ずかしいので「顔は写さないでください」ということになる。けれど国城は目立ちたがり屋で、尚かつ長髪でアイドル歌手のような風貌、見栄えがいいのですべて顔出しで写っていた。
しかし、国城以上によく出ている男がいた。長身で眼鏡をかけ、髪はボサボサの天然パーマ。おそらく僕と同世代だろう、中にはモデルの女の子と本当にセックスしている写真もあって驚いた。一九八三年、アダルトビデオというものが発売され始めたのはその前年のことだ。けれどいわゆる「本番」という行為をしている作品は皆無だった。そんなことをしたら摘発されてしまうと、制作者は誰もが恐れたからだ。
大島渚監督の映画『愛のコリーダ』、その脚本と宣伝用写真を掲載した同名の書籍が「わいせつ文書図画」に当たるとして、監督と監督と出版社社長が検挙起訴されたのが一九七八年。その記憶はまだ生々しくあった。なによりこの時代、本番行為を行うのは「裏本」「裏ビデオ」と呼ばれる非合法メディアだった。ヤクザの資金源になってるヤバイ商売だという認識だった。
そんな時代に、その天然パーマの若者は何とも飄々と写真の中でセックスしていた。行為同様アウトローな雰囲気も漂わせていたが、どこか愛嬌のある男でもあった。
「この人、よく出てますけど、誰なんですか?」と訊くと、
横西さんはチラリと写真を覗いて、
「ああ、ひのやんな。原さんのアシスタントだ」と答えた。
後に原さんこと原拓己という無頼のカメラマンと知り合い、そして「ひのやん」と呼ばれた男、火野口達彦が僕の長年にわたる大切な友人になるとは、そのときには想像もしなかった。
ともあれ急に忙しくなった。たった四ページだが、初めて誌面のレイアウトをする僕にとってはやたら時間がかかった。もちろん他にも文字校正やポジの切り出し、原稿整理など、従来のアシスタントとしての仕事は普通にある。増刊号の写真集用の写真選びも続いていたし、スズキくんや五十崎がいなくなり、編集部内のお使いや原稿取りはすべて僕の担当となった。特に四〇〇ccのオートバイで出社していたので重宝されていた国城が辞めてしまった、その穴を埋めるのが大変になった。
朝は誰よりも早く来て自分の仕事を進め、夕方、横西さんが「じゃ、先に帰るぞ」と編集部を後にしても残業を続けた。レイアウトにはトリミングといって、写真の大きさを指定する作業がある。これは編集部の一角に暗室があって、そこにある引き伸ばし機を使わなければならない。なのでその作業だけはギリギリまで会社に居残ってやって、原稿は家に帰ってから書いた。寝るのはいつも日付が変わってから。朝も六時には起きて七時過ぎの電車に乗った。
それでも充実していた。少部数のマイナーエロ本に過ぎないし、読者ページと銘打ったデッチ上げコラムだが、やっとのことで自分が雑誌を作っているのだという実感が持てた。ずっとなりたかった「編集者」というものに向い始めた、そう思った。
でもその翌週、僕の解雇が決定した。
四月の第三週だったはずだ。新年度に入社しそれまで書店営業の研修に出ていた三人の新卒社員が、編集部に入ってきたのだ。ひとりは国城の辞めたアサハラの下に付き、ひとりが電球頭の編集局長の下。そしてもうひとりが横西さんの『クライマックス・マガジン』に配属になった。僕の居場所は消えた。
僕の席に座ることになった三人目の新入社員は、フナムラという名の同い年の男だった。
「ああ、歳は一緒ですよね。僕は大学院に二年間行ってたから卒業が遅れたのです」
フナムラはそんな風に淀みない感じで言った。若いのに髪をキッチリと七三に分けてふち無しの眼鏡をかけ、太めの身体にブレザーを着て、折り目の入ったスラックスをはいていた。
「僕は大学で美術史を専攻してたんですね。だから本当は美術系の出版社に入りたかったですけどなかなかなくてね。しかたなくこの出版社に入ったワケです。ところで優梨さんは大学の専攻は何だったのですか」
「哲学です」僕は答えた。
「では美術にも興味がおありなんじゃないですか」
「美学の授業は取りましたけど」
「そうですか、だったら僕たち、気が合うかもしれませんね」
フナムラはそう言って屈託なく笑った。僕が受講した美学の講師は後に日本を代表する美学者になる谷川渥で、魔術や神秘学研究で知られる種村季弘の講義も受けた。贅沢すぎるほどの体験だったが、フナムラには言わなかった。自分の中だけにある、大切な想い出として抱いていたかった。
隣に座っていた横西さんが業を煮やしたように立ち上がり、
「ユーリ、茶店行くぞ。打合せだ。フナムラ、お前は原稿の整理してろ」と言った。
でも、いつも行く会社から歩いて五分の喫茶店「グレース」に行っても、横西さんは何も話そうとはしなかった。ただ珈琲を飲み、ハイライトを吸った。
「グレース」にはいつものように、クリーム色のブラインド越しに柔らかい陽射しが差し込み、落ち着いたオーク材のテーブルに柔らかく降りそそいでいた。連れてきてもらうようになってひと月と少し、僕もすっかりこの店が好きになっていた。横西さんが勤務中に抜け出ししばしばここに来るように、自分もそうしたいと思っていた。例えばこんなお洒落な空間で、原稿を書いたりできたらどんなにいいだろう、そんなことバイトの分際ではとても無理だけれど、いつか社員になれたらと。
差し込む四月の光の中で、横西さんの吐き出すハイライトの煙が揺れていた。
「まあ、アレだ。ユーリ」と横西さんは言った。「これが会社ってもんだ。そんでもって、これが人生ってヤツだ」
会社に戻るとフロアを統括する編集局長であり、人事の担当でもある電球頭の元上司がやってきて、
「フナムラくんも入ったことですし、アルバイトのひとには辞めて頂くことになってるんですよ」と言った。
正式な通告だった。僕がフナムラに仕事を教え、引き継ぎが済んだ段階で要無しということだった。
ついこの間「センズリ専門かい、情けねえヤツだな」と言った相手に敬語を使うのもあからさまだなと思ったけれど、それ以上に〈アルバイトのひと〉という言い方が何だか奇妙で滑稽だった。
けれど僕の方には抗議する権利はなかったし、それ以上に時間がなかった。スズキくんが首になったあの夜彼が送別会で言っていたように、〈経験者〉として新しい仕事先を探すのならできるだけ仕事を覚えなければならない。猶予は日給の〆日である月末。二週間足らずだ。少なくとも写植級数表やスケールを難なく使いこなして、単純なレイアウトくらいできるようにならないと話にならないだろう。
その日から僕はフナムラに仕事を教えながらポジ切りをし、原稿取りをやってデザイン入れをし、その合間に自分が企画した読者ページ〈クライマックス・ボイス〉を進めた。このとき、一時期よく食べていた、会社を出てすぐのところにある持ち帰り寿司の「京樽」が重宝した。昼飯はまた太巻き寿司になった。これなら片手で食べながら右手で原稿を書いたり、校正の赤入れをしたりできる。
フナムラが他の新入社員仲間と昼食から戻って来て、律義な感じでハンカチで手を拭きながら僕を見た。
「君はいつもソレを食べてますねえ、本当に太巻きが好きなんですねえ」
実に平和でニコヤカな表情だった。僕が曖昧に笑って朱入れをしていると、
「ねえ、僕たちそろそろ丁寧な言葉でしゃべるのやめた方がイイんじゃないのかな」
とフナムラは言った。
「だって同い年なんだしさ、君は先輩だけどアルバイトなワケで、僕は正社員なんだから立場的には上でしょう。だからプラスマイナスゼロということでさ、それに君はもうすぐ首になるんだから。ねっ?」
こいつは俺に喧嘩を売ってるんだろうかと思った。けれど見上げたフナムラの顔は、相変わらず昼飯後の平穏な春の午後という感じで笑っているだけだった。
(この男は、根っから底抜けに人のいいヤツなんだ)
僕はそう思いながら原稿に赤を入れ、太巻きをもぐもぐと噛んだ。フナムラは「本当にソレが好きなんだなあ、毎日食べてるもんねえ」と何度も言い続けていた。
それは長い長い坂道だった。そして一歩を踏み出すのを躊躇するほど、急斜面の下りでもあった。走行する自動車用の滑り止めだろう、アスファルトには蛸の吸盤を思わせる円形の穴が規則正しく、果てしなく彼方まで並んでいた。
会社を辞める日、最後の仕事は原稿取りで、僕は目黒にあるその坂道の頂上に立っていた。その先、坂を下りきったところにいわゆる「あぶな絵」と呼ばれる、古いタイプのエロティックな挿絵を描く絵師が住んでいるということだった。グラビア誌の『クライマックス・マガジン』には挿し絵なんて使わなかったから、電球元上司が作っていた実話誌のお使いだったのだろう。そもそも横西さんなら最後の仕事に原稿取りなんてさせなかったろうし、あったとしたらフナムラに行かせたはずだ。
とは言え、その日、特にその遅い午後からの記憶が実はとても曖昧なのだ。JR目黒駅から少し恵比寿方面へ戻り、目黒川の方へ向かった。しばらく歩いていくと、突然道が消えていた。近づいてやっと、その先が急な長い坂道だということがわかった。
下り始めると、さらにその尋常ではない急な勾配のほどがひしひしと感じられた。まるで、スキー場の上級者コースから滑り降りるような気分だった。周囲はうっそうと樹の繁る住宅街で、東京にもこんな急で長い坂道があったのか? そう驚きながら下っていった。
だけど──、奇妙なことに挿絵画家は留守だったのだ。
会社を出るときに電話を入れ、これから伺う旨を伝え駅からの道順も聞いたのに、門にそなえつけられたインターホンを何度押しても、誰も出てこなかった。昭和三〇年代頃に建てられたとおぼしき古びた木造の平屋だった。当時はさぞモダンだったと思われる三角屋根の西洋建築で、唐草模様の柄の入った、優美なガラスの出窓があったことを覚えている。
さて、どうしたものか。携帯電話など影も形もない時代である。近くに公衆電話は見当たらなかった。夕方が近づいて来た住宅街は、しんと静まり返っていた。車も通らず、歩く人影もなかった。まるで街中の人間が忽然と消えてしまった、そんな古いSF映画のワンシーンのようだった。
明日からどうしよう、と考えた。オフクロにどう伝えよう、とも思った。約半年、日曜日以外はせっせと会社に出かけていた息子が、突然また家にずっといるようになったらさすがに変だと思うはずだ。「首になった」なんて言ったら、あのお嬢さん育ちで世間知らずの母親はさぞショックを受け悲しむだろう。いったいどうしたらいいんだ?
そこから先のことは、なぜかまったく覚えていない。挿絵画家と連絡は取れたのか、無事原稿はもらえたのか。挿絵を受け取ったのなら届けるために会社に戻ったはずなのだが、そのあたりの記憶が一切ないのだ。
あれから目黒近辺に行くたび、何度かその坂道を探してみた。しかし、未だ一度も見つけることができないでいる。
あの坂道は、本当にあったのだろうか──、
会社を首になったあの日、上司に原稿取りを頼まれたことは本当に事実で、坂の下に住む挿絵画家は実在していたのだろうか。そんなことを考える。あの坂道やうっそうとした木々も三角屋根のモダンな家も、すべて僕の幻影ではなかったか。
ただはっきりしているのは、自分がその奈落の底のような挿絵画家の家の前に立ち尽くし、円形の穴が延々と並ぶ坂の頂上をずっと見つめてたことだけだ。それはまるで、僕の行く手を阻む人生の壁みたいに立ちはだかっていた。