承認欲求とは
子どもの頃、小さなおもちゃのオルガンを、お客さんが家に来るたび弾いてみせるということをしていた。
わたし、こんなことできるんだよ
と言わんばかりに。
褒めてほしいという思いがあったように思う。
中学生の頃には、おばあちゃんにさすがだねと言われたいがために、色々頑張っていたように思う。
いろいろな背景はあれども、性格的なものもあったのかもしれないが、母方の実家に住んでいたのもあり、家の中心は母だったと、その頃の私は感じていたのかもしれない。
母は、美人である。そして、天然である。周りが美人だ美人だといくら言おうとも、それを自覚することはなく、周りから差し伸べられる助けを素直に受け取れる。それを当然とは思っていないだろうが、ありがたく受け取れる才能があったし、まわりも役に立ちたいと思わされる何かがあったのかもしれない。それは、子どもである私もそうなのだ。
けれど、やはり自分にも注意を向けて欲しいという思いもあったのだろう。それ故、冒頭のような行動をとっていたように思う。
認められたい。私にも優しくしてください。
差し伸べられた手はたくさんあっただろう。それを素直に受け取るということが、私はできなかったため、過剰に求めていたのかもしれない。目の前の差し出された手をちゃんと見る余裕があれば、ありがとうと笑えたし、過剰に求めることもなかっただろう。
心にあいた隙間を埋める術を、自分の中に見つけられず外に向けていた、ということだろうか。
今でも、心の取り扱い方に四苦八苦する。なかなか自分とは手強い。かと思えばちょろいこともある。
自分でじぶんを認めることができたなら、どんな自分でもいいよと言えたなら、楽に気負わず周りを優しい気持ちで見られるだろうと思う。
そんなことをぼんやり思う今日のわたし。
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