吉野ヶ里遺跡で少し考えたこと
オヤジブログ怪気炎 vol.135
遺跡について、現地に行けば何がわかるのか? 行かなければわからないものなのか? ボクは2月の三内丸山遺跡の見学で自分なりの回答を一つ得ました。文献による客観的な情報よりも現地で自分が見て感じたことの方に意味があるのだと。
5900年前の三内丸山遺跡と2100年前の吉野ヶ里遺跡の時代の差は、ざっと3800年!
吉野ヶ里遺跡に入って、まず柵に囲まれて堀が掘られていることに驚く。クニどうしの大規模な戦いが始まっていたのだ。
思うに経済的に豊かになり、さらに豊かさを欲するとそれは利益や掠奪に繋がっていき、その攻撃から今ある豊かさを守るために防衛のためのさまざまな方法が工夫されたのだろう。しかし、それは多くの人の犠牲が伴う。
そのシンプルな原理は、現代に及ぶ。豊かな国ほど不思議なことにほかの国にちょっかいを出す。GDPで日本を抜いていった大国が、40年前他国や周辺地域にとっていた姿勢と現在とを比較すれば、理解しやすい。
次に王の宮殿と呼ばれる建物。身分の差により服装や埋葬方法が決められていたという展示があった。
身分の差が、共同作業の指導力や利害調整から生まれてきたと資料に書かれているが、現在大きな組織(会社)での管理的な立場のパフォーマンスと似ている。大きく異なるのは、それが身分という上下関係に転じていることだ。さらにそのパフォーマンスは個人の資質や経験値に起因するもので、世襲で受け継ぐべきものではなかったはずだ。このように人間社会が変容した理由をコンストラクタル法則と説明する人がいるが、それについては、いずれ新たに書いてみたい。
世襲を固定してしまったのが、江戸時代の士農工商であり、インドのカースト制度ではなかろうか? 身分の違いを乗り越える手段は、やはり教育であるべきでしょう。次世代のリーダーを弥生人たちがどのように育てたのか? 興味があります。
またリーダーとして信頼されることが、なぜ身分へと転じていったのか? ぜひ弥生人に聞いてみたい。