頬の雫
野ブタをプロデュースの原作即ちノベライズは、プロットという複雑なことを言えば素朴な第一印象の読後感と反して、無関心から始まり無関心に終わるような読め方もする。
それは底意をそう捉える必要はない。
しかし太宰は確かにその美しさがある。ヴェイユもまたそうだった。
二人の人間である限りだが違いからスタートし、違いへと帰っていく。
そして何か現実感を薄くさせる環境の変化は、実感の稀釈と喪失として当面の解決を与えるかもしれない。
もちろん途中関わろうという真剣な段階がある。
けれど自分の信じないセオリーで相手を解決するというジレンマは淡いままの異性への欲求になにか説明される。
深く関わる者は問題の渦中まで突入する。
他人事としての客観性は大人に見せる。
型から入ること自体は理解を、示せる。
純粋さの二面性は、他者にダーティーワーク担当が分担されている可能性があり得る事である。
それはピュアなのだろうか?
トリックスター行為を諦める時、同性の友情の問題などを遂に抱えきれなくなって男社会が破綻し、異性が解決に乗り出した時、場を去っていると言える。
つまりそこに少し責任感を聴きたくは、なるのである。
もう一ついえるのは他校と単独の仲間に関連する問題だという場合、大人との中間だという条件とはまた別なプライオリティの解釈に課題が主人公らには、残る事である。
外の条件を知らない。物凄く強いか平凡か。心の整理をつけた時点は解決として好いか行動までする方がいいか。それだと判断出来ないのであろう。
翌日になると心は癒され忘れられるのか。そうした種類じゃないことか。友人のそれは、分かりかねるだろうか?
個人差として相手自身に胸中の解決をさせ、絆は育まれたのだろうか。
あるいは心への我慢は、一時期にとって成熟への橋渡しかも知れないのだが他者固有の痛みだと理解する時、助けは生じないだろうか?
重要にその問題点は残る。
現実を映像だとして編集して心の解決とするのは内面には特効なものの深い意味での解決を、与えないと言える。
その超克が次の段階には待ったなしに必要だ。
環境の変化は解決しない点ゆえ。
ある手ごたえとしてシトシト降る雨を理解し得たという認識における前進は評価できはするが、それもまた行動パターンの変化に及んでいない。
それは興味深い点となる。
悲しみは現実から生まれるからにはありがちな問題にはまた取り組める必要が、ある。
ニュース風フィルターを通して慈悲を感じたとしても、解決に環境を理由にしないことが、実際の問題解決まで到達する事が環境を自分で変化させる力に徐々に変わることを思えば、組織の構造へまで向かわないままの関心は環境を本質的に変更するに至らない。
今回はそれを使う事が出来た。
運である。
よくも悪くも読了してもこの部分は印象を超えず変わらずじまいだった。
読書会に丁度良さそうなサイズをしている本であった。
カンファレンスを子供達でぎりぎり開けそうな内容だ。
購入もわるくはないだろう。わるいという程わるくなかった。
肉食系の人間は出てこない。
私はそういった挑戦も見たかった。