女優を輝かせる毒
浜辺美波さんの演技は、いちおわたしは、黒田清輝とかスキなため、そういう型も尊重しているし、わたしはそんなに愛さなくても常識的には立派な谷崎潤一郎の受取り手に凄く美から考えさせる利点の結実も虚飾ナシに高尚な印象を受けた。矢井田瞳とか、そういう感性も連想させられるすこし。男性なら、すさのおというもんはあるとされており、グリーフケアを必要としている。これはやんちゃな青春と童子らしさを、激しい悲しみとして濃厚な情操の目覚めとして、悲しみよコンニチハ、と、もっている。これは泣いてうったえる。あるいはそれは美味しくなかった、苦かった、足りなかった、満たしてほしかった、器用になれない所を、愛して欲しかった、と、ゆう、風に。それは姉を永遠に笑わせ続けることは出来ない。
これは実りの神と違う役割をはたしている。
台風に宿ったりするのをすさのおと捉えて、よい。
創造にはかれは役割をもっていない。
一緒に壊れるかなしみを担当している。破壊の神の人情もろい存在といえる日本式の。
これは、軍神とは多少違う。軍神という分類も争いを、作る。
情緒に向き合わない。
これに対しすさのおはかなしみや、慟哭へ、生活的なところを犠牲にしてむきあう。
これをそっくり女性におきかえると、母にならない刹那への関心や、一瞬への投機や、失うことを全く意識しない態度や、破滅への勇気、家庭的というより愛人に近くなる事、こういう事をこっちの一面に持っている。
生活には決して、満たされない側面。賭けという物もここに入る。
ここはヘッセなら、悪友の構成している世界になる。悪と一元的に言いたくなるのを、こえられた時、大量の可能性としての多様性を、レールの真逆に見い出せる。
双方を経験していないとトリックスターは出来ない。「モルジアナ」はトリックスターになる可能性はあるし、それから「シンドバッド」はトリックスターになる可能性を、持つ。もちえる。
文学の場合は、道化をきらう風潮は現在へと太宰の死、三島のなにかの潔癖と中上のチャップリン嫌いと、或る短気さとして、明確さを求める様になった。
独裁に対して悪として指示を拒むとか、脱藩するとか、そういったストレートとは違う決断は減退していった。
戦後は戦後の一律さを求め始めた。
思春期を斜め上から見ては、大人になった。
結局は正しい物はある事に、した。
岡潔や小林秀雄はややこのスタグフレーションを気付いた程度と留まった。
悪からみられない。
そういう、おとなは、急速に、増えた。
逆の観点を知らないから突進出来る画一的軍国教育はあまり変わらなかったこの面からは。
創造性のレールまんまの善からの芽を、つむ風潮はなおらない。
反抗期の創造の芽吹きをみわけも出来なく成った日本の成熟。
リスクに対して回避しかしないという危険な傾向をまた始めた。
ー悪女の味も解らないー