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「『エモい』批判」への対抗

以前偉い人が講演の中で、
「『エモい』『ヤバい』という言葉を使うな。これらの言葉を使うという事は、言語化を怠っていることに他ならない」
と言っていた。

本当にそうだろうか。

私は必ずしもそうは思わない。



「エモい」は言語化の怠りではない


確かに「エモい」「ヤバい」という言葉は一語で心境や状況をクリティカルに表すことには長けていない。

「エモい」が示す心境の中には「趣深い」「懐かしい」「切ない」など様々な感情が含まれるので、「エモい」という一言から発言者の心境を正確に類推するのは難しい。

「ヤバい」という言葉は近年、良し悪しに関わらず何かの程度が大きいことを表す際に使われることが多い。
そのため他の言葉とともに使わなければ、何が言いたいかほとんどわからない。

「エモい」が持つ曖昧さや「ヤバい」が持つ軽薄さにより、
これらの言葉を使うことが言語化の怠りとされてしまうのだろう。

ときには、言葉そのものが乱れた日本語と言われることもある。



これらの言葉が「日本語の乱れ」として槍玉に上がりやすいのは、単にフランクに使われる若者言葉だというところが大きいと思う。

そもそも言葉は多少なりとも曖昧さを有するものだし、「エモい」「ヤバい」も言葉である以上、それぞれの指示対象を持つ。


「エモい」には
「趣深い」「懐かしい」「切ない」ではカバーしきれない、スラング特有のチープさがある。

「泥酔した翌朝、知らない街の道端で目が覚めた。初めて見るこの街の朝日は案外綺麗で、こんな朝も悪くはないと思った」

という時の気持ちを表すならば、言葉を尽くすよりも
「二日酔いで見る知らん街の朝日エモいな~」
くらいが丁度良かろう。


「ヤバい」は
何かの程度の大きさが、発言者の心象の変化に直結したことがわかる。

「行きたいライブのチケットが当たって非常に興奮した」
と言うのと、

「行きたいライブのチケットが当たってヤバい」
と言うのとでは、後者の方が感情の昂ぶりに理性が介在していないことが伝わってくる。


新たに言葉として発生しているのだから、今まで日常的に使っていた言葉では表せない意味やムードを持っている。

誰かが「エモいね」と言ったなら、発言者の感情は「趣深い」ではなく「エモい」だったのだ。



「社会人としての自覚」ってなぁに?


だいたい、
「趣深い」だってかなり曖昧だ。

「エモい」が批判されて「趣深い」が批判されないのは、「エモい」が若者言葉だからだろう。


私が思うに、「エモい」「ヤバい」なんかよりもずっと曖昧で軽薄な言葉がこの世にはたくさんある。

今年度社会人になって以来、いやになるほど耳にした
「社会人としての自覚」
もその一つである。

「社会人」も「自覚」もよくわからない上に、大事な「自覚」の内容について何も言及されていない。

更にはこれがないと社会で上手く生きていけないと来ている。
「エモい」「ヤバい」なんか非にならないくらいタチが悪い。

「社会人としての自覚を持ってください」と言う時、
個々人が銘銘思い描いている「社会人としての自覚」が自身のそれと一致していることを過信し、言語化を怠っているのだ。

私の思う「社会人としての自覚」によってもたらされる行為が銀行強盗だったとしても、文句は言わないでほしい。



言葉に貴賤はない


偉い人の話を聞いていると、
「『エモい』は言語化の怠りだ」と言ったその口で
「社会人としての自覚を持て」と言ったりする。

これはとんだダブルスタンダードだと思う。

言語化という観点で「エモい」を糾弾するのであれば、
「社会人としての自覚」についても詳細な説明を求める。

「社会人としての自覚」よりも「エモい」の方が曖昧な表現だとは言い切れないからだ。


もしかしたら
「『エモい』という言葉はあくまでも若者言葉で、フォーマルな場や書き言葉には適さない」
という含みもあるかもしれないが、だとしたらそれも言語化すべきである。



最初に講演での
「『エモい』『ヤバい』という言葉を使うな。これらの言葉を使うという事は、言語化を怠っていることに他ならない」
という発言を取り上げた。

この発言は「感性を磨くべし」という文脈で語られており、要するに「言葉を使って何かを正確に表現することを怠るな」という事を言いたかったのだろう。


これについて異論はない。

私たちは言葉を通して世界を見ているので、自分が扱う言葉は自分の世界そのものだ。

物事に正面から向き合って言葉を紡ぐことで、見ている世界の輪郭に触れることができる。

一方で、言葉にしないものは解像度ががくんと下がる。
輪郭がはっきりしない物事は、正しく扱うことができない。

世界の解像度を上げて物事を正しく扱うためには、とにかく言葉を紡がなければならない。

だから日常生活でも仕事でも「言語化が大事」と言われるのだ。


しかしその中で特定の単語を槍玉にあげて「この言葉を使うな」というのは些か無神経であり、下手すれば言葉狩りである。

よっぽど不適切でない限り単語に貴賤はなく、使いようによって陳腐にも独創的にもなる。

言葉そのものを制限するより、使い方に気を使う方がよっぽど建設的ではないだろうか。



言葉がわからないのは自分に向けられていないから


新語が出てくると、意味や用法を見てもピンとこないことがある。

2021年にユーキャンの新語・流行語大賞に「ゴン攻め/ビッタビタ」がノミネートされた。

「ゴン攻め」は
「リスクを負いながらも難所をガンガン攻めている」

「ビッタビタ」は
「技が型にしっかりはまる」

という事らしい。

スケートボード競技の解説から生まれた言葉だそうだが、スポーツに疎い私はどちらもうまく飲み込むことができなかった。

「ゴン攻め」はともかく「ビッタビタ」に関しては、
「もうちょっと説明していただけますか」と言いたい。


この現象は外国語学習の際にも起こる。
ある単語にぴったりと対応する母語が、往々にして無いからだ。

例えば「virtual」という英単語には
「事実上の」という意味と「仮想の」という意味がある。

日本語で表現すると真逆ともとれる意味が一単語に内在しており、単語を習ったときに非常に混乱したのを覚えている。

こちらも「もうちょっと説明していただけますか」と言いたくなる。


言葉を運用している側は意味が分かるが、外野から見るとなんのことかわからない。



この「もうちょっと説明していただけますか」という気持ちは、気を抜くと
「その言葉は使わないでください」になってしまうと思う。

「自分に伝わらないのは、相手の言語化が足りていないから」
と思ってしまうからだ。


無論彼らは言語化を怠っているわけではなく、むしろ自分の持つ言葉の中で最も表現に有効な言葉を使っている。

これらの言葉にピンとこないのは、私に向けられた言葉ではないからに過ぎない。

「ゴン攻め/ビッタビタ」は競技解説の中で使われた言葉なので、競技に関心のある人が聞く想定で紡がれたものだろう。

「virtual」も、英語を母語とする人々の中では違和感なく運用されているのだろう。


自分に向けられない言葉はわからなくて当然だし、わかりたいならこちらから歩み寄る必要がある。

それでも時に「すべての言葉はすんなり理解できて然るべきだ」と勘違いするし、言葉が理解できないと相手の言語化能力のせいにする。

流石に外国語に対して「その言葉を使わないでください」という事はないと思うが、母語である日本語ならもっともらしい非難ができてしまう。

だからうっかり言葉狩りをしてしまわないよう、気を付けなければならない。


もっとも、講演をするようなお偉いさんに
「この夜景マジエモいっすね」と言った人物がいたなら

お偉いさんにも
「意味が分からないからその言葉を使わないでくれないか」
と言う権利はある。

相手に通じない言葉を使わないのは、コミュニケーションの基本だ。



想像力は思いやりかつ自衛である


今までの話を総括すると、

  1. 「エモい」にも指示対象があり、他の言葉に比べて特別曖昧なわけではない。

  2. 「エモい」以上に曖昧でありながら容認されている言葉はたくさんあるので、「エモい」を糾弾するならばそれらの言葉に関する説明を求める。

  3. 自分に向けられていない言葉がわからないのは自然であり、話者の言語化能力が低いわけではない。わかりたいなら歩み寄る必要がある。

  4. 人に向けて話すときは、相手にわかる言葉を選ぶべきである。

というのが私の思いの丈である。


言葉を発した先には様々な受け手がいる。

新語に疎外感を感じる人がいる一方で、新語が批判されて悲しむ人もいる。

偉い人の何気ない一言にイチャモン記事を書いた私なんて、言葉の受け手の多様性を実によく表している。


どんな場面でも、言葉を使うなら相手の受け取り方を想像せねばならない。

これは思いやりであると同時に、自衛でもある。


あなたが明日話す相手は、イチャモン星人かもしれない。



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